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2014年1月12日 (日)

奥の細道を訪ねて第16回 (3日目)長浜~大垣

11月28日(3日目) ホテルの窓から、目の前に長浜城と琵琶湖が見えました。
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朝食前に散歩しようと玄関まで降りましたが、雨が降っており、風も強く、暫くロビーで新聞など読みながら様子を見ていたところ、雨が止んだので、長浜城まで行きました。
長浜城は江戸時代前期に廃城となり、その城跡に明治42年に作られた豊公園。長浜城主だった豊臣秀吉に因んで名付けられたとのことです。
紅葉が綺麗でした。
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昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」が復元されました。内部は歴史博物館として公開されています。
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長浜城址
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本丸跡
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雪吊の先端に縄の瓢箪が掲げられ、職人技ですね。
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琵琶湖の畔の道をホテルに戻りましたが、風の冷たいこと!寒いこと!!

この日 最初に訪れた慶雲館は、明治時代に長浜の豪商・浅見又蔵が私財を投じ、明治天皇の行在所として建てた迎賓館です。広大な庭園は国の名勝に指定され、現在は公共の施設として、そのほか観光施設として一般公開されています。
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ここに、日本最大の句碑がありました。見上げるような巨石に「蓬莱にきかはや伊勢の初たより はせを」と刻まれた芭蕉句碑です。元日に床の間の蓬莱飾を前にして、神々しい儀式の営まれる伊勢神宮あたりから、初便りを聞きたいものだ、との句意。
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高さ5メートルという大灯籠もありました。
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長浜八幡宮
源義家公が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮より御分霊を迎えて鎮座された。兵火により社殿のほとんどを焼失したものの、長浜城主となった羽柴(豊臣)秀吉により再興された、とのこと。
参道
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参道から摂社 天満宮への入口にある芭蕉句碑
「をりをりに伊吹を見てや冬籠」
墨を塗って拓本を採ろうとして失敗されたために、黒くなってしまったようです。
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摂社 天満宮
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拝殿
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幣殿
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本殿
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摂社 高良神社
御祭神の竹内宿禰(たけのうちのすくね)は長寿の神様で、健康でボケる事なく活躍された故事により、ボケ封じの大石がありました。お願いすれば良かった、、、
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私の子年と、夫の丑年、可愛い「起き上がり守り」を買いました。
七転び八起き.....「起き上がりこぼし」になっているのです。
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織田信長・徳川家康連合軍(約3万の兵)と浅井長政・朝倉影健連合軍(1万8千の兵)が激闘を繰り広げた姉川古戦場
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戦いは信長の勝利に終わりました。この姉川一帯は血に染まったといわれ、供養塔が建っていました。
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供養塔の前に建つ木導の句碑「春風や麦の中行く水の音」
木導は禄高150石の彦根藩士 晩年に芭蕉門人となり、「風俗文選犬注解」の作者列伝に「蕉門の英才なり 師翁奇異の逸物と称す」と記され、また 芭蕉はこの句を「木導が春風 景曲第一の句也 後代手本たるべし」と称賛し 褒美に「かげろういさむ花の糸口」という脇をつけたした、と説明版に記されていました。また、最初は「姉川や麦の中行く水の音」であったところ、芭蕉が「春風や」に直したとの話もあるとか。
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滋賀県米原市にある観音寺は豊臣秀吉が石田三成を見出したことで知られる古刹です。石田町は三成が生まれた町です。
総門
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総門を入った右手、参道の入り口に芭蕉句碑が建っています。
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「其のままに(よ)月もたのまじ伊吹山」
伊吹山は月が出ていなくても(月を添えなくても)其のままの姿で十分に美しい。との句意
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総門前の道路から見た伊吹山
雲がかかってしまい残念。
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総門を入って左手に池の畔を進むと「石田三成水汲みの井戸」があります。
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秀吉が鷹狩でこの寺に立寄った際に、小僧をしていた三成が、秀吉に献じたお茶の水を汲んだとされる井戸です。三成が献じたお茶は、最初はぬるめ、2杯目は最初より若干熱め、3杯目は熱いお茶を少量という心遣いで、これを「三椀の才」といい、秀吉に見出されたことで有名です。
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石段と本堂
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薬師堂
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境内
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結びの地、大垣で私たちが最初に訪れた正覚寺。入口に「史跡 芭蕉木因遺跡」と刻まれた石柱が建っていました。木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだため、芭蕉との親交が深くかったとのこと。(しかし、晩年に芭蕉がめざした「軽み」との考えの相違から、芭蕉と木因の親交は遠くなったとか...)
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芭蕉木因遺跡
元禄7年(おくのほそ道行脚5年後)芭蕉が大阪にて病死すると、大垣の俳人如行が中心となり、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑(尾花塚)を建てました。これは最古の「翁塚」とのこと。木因碑は木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲んで建てたそうです。「芭蕉翁」追悼碑の脇に建つ句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」は明治になって建てたもの。翁塚周辺には大垣の俳人の句碑が並んでいました。
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隣接する愛宕神社から見た正覚寺本堂
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愛宕神社 実は、正覚寺で写真を撮っていて皆に遅れ、なぜ、愛宕神社に入ったのか、聞きのがして分かりません。
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大垣城の外堀であった水門川に沿って、奥の細道の全行程およそ2,400kmを2.2kmに縮め、全部で22基の句碑をめぐる「ミニ奥の細道」はこの愛宕神社のあたりから始まりますが、私たちはバスで八幡神社まで移動し、そこから歩きました。

総鎮守として人々の崇敬をあつめている大垣 八幡神社
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境内に建つ芭蕉句碑(冬ごもり塚)
「折々に伊吹をみては冬ごもり」 元禄4年(奥の細道行脚の2年後)京都から江戸への旅で大垣に立寄り藩主岡田治右ヱ門邸へ泊った時に詠んだ句。
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句碑の前に「大垣の湧水」がありました。大垣は昔から多くの家庭に自噴井戸があり、まちのいたるところに水路があり、「水の都」と呼ばれたそうです。ライオンズクラブ結成30周年を迎えるに当たり、市民の憩いの場となるようにと掘削した自噴井戸です。
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本殿(左)と出雲社(右)
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出雲社前の銀杏落葉は目が覚める鮮やかさです。
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大福稲毛神社の鳥居
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大垣天満宮
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八幡神社前の八幡大橋と芭蕉句碑
 ここから歩いて句碑めぐりをしました。
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円通寺の前に建つ句碑
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円通寺 大垣藩主・戸田家の菩提寺です
山門
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思わず拾ってしまいました。参道の色鮮やかな紅葉です。
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本堂
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芭蕉句碑
奥の細道の旅で芭蕉は大垣藩家老 戸田権太夫(俳号 如水)の下屋敷を訪れ、弟子の路通と共に忍びにて初めて対顔し、俳諧を楽しみました。 大垣市文化財保護協会編「西美濃の芭蕉句碑めぐりーガイドブックー」より
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円通寺の前を流れる水門川(興文橋より )
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興文橋を渡り、大垣公園へ、ここで30分ほど休憩しました。
大垣城と初代藩主 戸田氏鉄公の像
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天気が良いので、100円の入場券を買い、大垣城の天守に登りました。内部は博物館です。
周りに雲が有りましたが、伊吹山の全容を見ることが出来ました。
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川沿いの句碑めぐりを再開
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清水橋と水門川
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ここで他のツアーの方々と重なり案内板の撮影はできませんでした。
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結びの地に近く3つの団体が重なり、やっとのことで撮った碑文。
皆の後を追いかける途中、他の団体に向かって行く仲間の方に気が付き呼び戻しました。
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大垣の章段 本文
『露通も、このみなと迄、出でむかひて、みのゝ国へと伴(ともな)ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曾良も、伊勢より来(きた)り合ひ、越人(えつじん)も、馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)其の他、したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且つよろこび、且ついたはる。旅のものうさも、いまだやまざるに長月六日になれば、伊勢の迁宮(せんぐう)をがまんと、又ふねに乗りて、
  蛤のふたみに別れ行く秋ぞ  』

路通は敦賀まで芭蕉を出迎えました。最初に奥の細道に同行する事になっていたのは路通でしたが、門人たちの信用が薄かったので、曾良が同行することになったそうです。曾良は芭蕉の旅の最後を路通に譲ったのではないか?とのことです。
芭蕉は山中温泉で曾良と別れ、金沢からは北支が同行し、松岡天龍寺を訪れたあと北支と別れ、一人で福井に入ります。福井からは等栽が敦賀まで同行しました。敦賀に出迎えた路通と共に芭蕉は大垣に入りました。


結びの地 到着です。
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船問屋 谷木因宅前に建つ「奥の細道むすびの地」の石柱。背後に芭蕉と木因の像。
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芭蕉(左)と木因(右)の像
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蛤塚(芭蕉句碑 右 手前)と木因白桜塚(木因句碑 左 後
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木因俳句道標 
木因が建てた道しるべで 「南いせ くわなへ十り ざいがうみち」と句が刻まれています。
くわなへ⇒
桑名へ、季語の桑苗を掛けたものです。
本物はむすびの地記念館に展示されています。
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水門川に架かる高橋の欄干にも芭蕉の句と木因の句が埋め込まれていました。
「来てミれは獅子ニ牡丹の住居哉 」  芭蕉
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「矢張召せ此処ハ伊吹の吹すかし 」 木因
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船町港跡 芭蕉はここから伊勢へと旅立ちました。赤い橋は住吉橋。
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住吉橋の袂に建つ連句塚
芭蕉の伊勢への旅立に、木因・如行らも船に乗り途中まで見送ったのですね。伊勢に旅立つ日に詠まれた送別の連句を杉風宛てに送った書簡だそうです。
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住吉橋の反対側の袂には如行の句碑(如行露塚)が建っています。
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最後に、奥の細道 むすびの地記念館を見学しました。観光・交流館、先賢館、芭蕉館、等があり、芭蕉館を興味深く見学しました。
その一つ且つよろこび、且ついたはる』
如行の日記によれば、芭蕉は、大垣到着後しばらく病み臥せっていた。人々は芭蕉との再会を「よろこび」一方で、病みつかれた様子に「なげきて」である。など、奥の細道のことが、細かな解説と共に、とても分かりやすく、もっとじっくり見学したい場所でした。

帰路 バスで名古屋へ向かう途中、夕焼けが綺麗でした。バスの席が反対側だったので、窓際にいらした 青森から参加された方にお願いして撮って頂きました。有難う!
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名古屋発18時24分ひかりで無事に帰宅しました。
軽い気持ちで参加した奥の細道ツアーですが、回を重ねるごとに奥行きが深まったように思います。歴史講師U先生、S先生のおかげです。有難うございました。見過ごした場所、聞き逃した事、沢山ありました。もう一度訪ねたい場所もあり、機会があればと思います。












































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2014年1月 6日 (月)

奥の細道を訪ねて第16回 (2日目)敦賀~長浜

11月27日、2日目の朝です。昨夜は分かりませんでしたが、7階の窓からは港が見えました。
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朝食が早い時間にとれたので、今回は朝食後に散歩しました。敦賀駅は目の前です。交差点の角にスコップが置かれていました。雪深い街なのですね。
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8時15分出発、バスで10分、金前寺に到着です。等栽と敦賀に入った芭蕉は、出雲屋に泊まり、夕食後、気比神宮に参拝し、翌日、天屋玄流らの案内で金前寺を訪れました。私たちの見学順序は芭蕉の行程とは前後します。芭蕉はここで、延元の戦い、陣鐘の物語(南北朝時代の沈鐘伝説)を聞き「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」の句を詠みました。その句碑が鐘塚ですが、「おくのほそ道」には記載されていません。芭蕉の木像と、鐘塚帖という句簿もあったが、昭和20年7月の戦火により消失したそうです。高浜虚子、星野立子が敦賀を訪れた折、この鐘塚を訪い、虚子が「句碑を訪うおりから月もなかりけり」の一句を詠んだとのこと。
金前寺
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芭蕉翁鐘塚
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真蹟を刻んだと伝えられているとのことですが、石が重なっているようで、読み取れない部分があります。「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」
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金前寺の先が新田義貞と足利軍が戦った古戦場で、金ヶ崎城址と金崎宮があります。
金ヶ崎城址
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坂の途中から見た敦賀市街と野坂山
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城址から見た敦賀湾
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金崎宮
金ヶ崎城址の中腹にあり、敦賀湾を見晴らす高台にあり、紅葉がきれいでした。
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地元の方に「けいさん」の愛称で親しまれている気比神宮。越前の一ノ宮で北陸道の総鎮守。
『おくのほそ道』本文
『十四日の夕暮、つるがの津に、宿をもとむ。
其の夜、月、殊に晴れたり。「あすの夜も、かくあるべきにや」といへば、「越路(こじぢ)のならひ、猶明夜の陰晴(いんせい)、はかり難し」と、あるじに酒すゝめられて、けひの明神に夜参(やさん)す。仲哀(ちゅうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭神さびて、松の木間(このま)に月のもり入りたる、おまへの白砂、霜を敷けるがごとし。「往神(そのかみ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みずから葦を刈り、土石を荷ひ、泥淳(でいてい)をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例、今にたえず、神前に真砂を荷ひ給う。これを、遊行の砂持ちと申し侍る」と、亭主のかたりける。
  月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがわず、雨降る。
  名月や北国日和定めなき   』  

明日の十五夜は晴れるかどうか分からない。ならば、月の綺麗な今宵にと、芭蕉が夜参した気比神宮
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大鳥居(旧国宝・現在は国の重要文化財)は寛永年間に旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居で、天下無双の大華表と呼称され、各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行われてきたとのこと。
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大鳥居前の大通りを隔てた向かい側に、「遊行の砂持ち神事」の像が見えます。
遊行二世の上人が男と土石を担ぎ、もう一人の男が土石を掘っています。
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大鳥居を入った左手には猿田彦神社
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正面の参道と社務所
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手水屋から中鳥居
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中鳥居に向い合って建つ芭蕉像と句碑
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芭蕉像 台座には「月清し遊行の持てる砂の上」の句が刻まれています。
Photo_8芭蕉句碑と芭蕉翁杖跡碑
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句碑 芭蕉露塚「気比のみや  なみたしくや遊行のもてる砂の露 はせをPhoto_11芭蕉翁杖跡碑には
芭蕉翁露塚
  なみたしくや遊行のもてる砂の露
芭蕉翁銅像
  月清し遊行のもてる砂の上
と刻まれていました。

芭蕉翁月五句の碑 芭蕉は敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地を訪れ、月の名句を詠みました。その代表的な5句が刻まれています。
「国々の 八景更に 気比の月」
「月清し 遊行のもてる 砂の上」
「ふるき名の 角鹿(つぬが)や恋し 秋の月」
「月いつく 鐘は沈る 海の底」
「名月や 北国日和 定めなき」
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この他にも敦賀では次のような月の句を詠みました
「中山や越路も月はまた命」 
  (越こしの中山=今庄~敦賀の中間、木の芽峠のある大山での作)
「月のみか雨に相撲もなかりけり」 (気比の浜)
「衣着て小貝拾はん種の月」 (種の浜)

中鳥居から拝殿
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拝殿
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拝殿に向かって右脇の柵から見ました。これは御本殿ではなく、四社の宮の一つだと思います。御本殿は左脇からだと拝観できることを 旅の後に調べて分かりました。
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境内の式内摂社 ・角鹿(つぬが)神社 「敦賀」の地名発祥の神社だそうです。
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摂末社は15もあるようです。

市民文化センター前の芭蕉翁月塚
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「諸国を巡り、国々の八景を見尽くして、さらにいま、名月に照らされた気比の海の佳景に接することのできた仕合わせよ。」 句意 田中空音「芭蕉全句鑑賞」より
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私たちも気比の海に向かいました。
日本三大松原の一つ、気比の松原です。聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した その時、敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した。そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し、あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた。敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去った。という伝説に因んで一夜の松原とも呼ばれるようです。
広々として気持ちの良い浜でした。ここの月夜はさぞ美しかろうと想像しました。
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『十四日の夕暮れ、つるがの津に、宿をもとむ』と記載されている出雲屋の跡。「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱が立っていました。出雲屋の主人弥一郎が芭蕉に「お砂持ち」の故事を伝え、中秋の名月の前夜、月明かりの中を気比神宮に案内しました。
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芭蕉は出雲屋に笠と杖を残していきました。笠は失われたが、『蕉翁宿』の宿額も、芭蕉が残した杖とともに今も伝えられているとのことです。Photo_23
このすぐ先の角を曲がると、天屋玄流旧居跡です。現在はホテルの駐車場です。
敦賀滞在の三日目、『おくのほそ道』で最後の歌枕の地、種(いろ)の浜へ芭蕉を案内したのが天屋の室五郎右衛門です。五郎右衛門は玄流の他に点屋水魚とも号し、当時の敦賀の俳壇では中心的な存在だったようです。
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常宮の海岸べりにある常宮神社。気比神宮の摂社として創建されたと伝えられ、現在は安産の神様として、土地の人々に崇敬されているとのこと。鳥居の前に芭蕉句碑 「月清し遊行のもてる砂の上」がありましたが、刻まれた文字は 読み取れませんでした(三枚目の写真)。
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鳥居と神門
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本殿 神門と本殿の造りがそっくりで 写真整理に戸惑いました。
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境内の東殿宮
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西殿宮
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平殿宮(左)&総社宮(右)
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末社
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紅葉が綺麗でした。鳥居を入った所にあった立札に「落葉の採取を堅く禁ずる」とありました。
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神社にある朝鮮鐘は新羅鐘の数少ない遺品の一つとして国宝に指定されており、収納庫に収められていました。文禄の役で加藤清正が持ち帰ったものを、豊臣秀吉が神功皇后の三韓征伐に因んで 大谷吉継を使者としてここに奉納したと伝えられているが、倭冦によってもたらされたとの説もあるとのこと。混んでいるので後でと思っていたら もう扉が閉まっていました。
新羅鐘堂
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説明版より
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花梨&ますほ貝を ご自由にどうぞと並んでいました。花梨は良い香りがするので、玄関にと1つ。ますほ貝も拾えるかどうか分からないと思い少し頂きました。
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3つ並んでいる貝の真ん中の一番小さい貝と、2つ並んでいる貝の左のほうがますほ貝だと思います。
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この後、本隆寺を見学し、色ヶ浜(種(いろ)の浜)でますほの小貝を拾いました。
色ヶ浜
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『おくのほそ道』本文
『十六日、空晴れてれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に、舟を走(は)す。海上七里あり。天屋何某(てんやなにがし)と云ふもの、破籠(わりご)、小竹筒(ささえ)など、こまやかに、したゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風、時の間に、吹き着きぬ。浜は、わづかなる蜑(あま)の小家にて、侘しき法華寺有り。爰(ここ)に、ちやをのみ、酒をあたゝめて、夕暮れのさびしさ、感に堪へたり。
  さびしさやすまにかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵
其のあらまし、等栽に筆をとらせて、寺に残す。』

色ヶ浜は西行法師がますほの小貝の歌を詠んだ地で、芭蕉にとってはぜひとも訪れたい場所でした。「ますほ」は「まそほ」と同じで、意味は赤い色です。桜貝のような、ベニガイとのことだそうです。この地方でしか採れないようです。私も楽しみにしていた事の一つです。ますほの小貝は常宮神社で見ているので すぐに分かりました。
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赤ちゃんの爪のような、ほんとに小さくて可愛い貝でした。
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侘しき法華寺と芭蕉が記載した寺は本隆寺のことで、芭蕉はこの寺に宿泊しました。当初は禅宗の寺院であったが、日隆上人がこの地を訪れ尽力を尽くしたことで、村人が心を打たれ、日蓮宗に改宗し寺号を本隆寺に改めたと伝えられているそうです。
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境内に芭蕉句碑が2基、右奥の句碑には、傍の石柱に「芭蕉翁杖跡 萩塚」と刻まれています。どちらもこの地で詠まれたものですが、『おくのほそ道』には記載されていません。
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「衣着て小貝拾わんいろの月」
衣着て、は西行にならって墨染めの衣をまとい、という意味のようです
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「小萩ちれますほの小貝小盃」
小盃の中にますほの小貝を拾い集めたようです。芭蕉は小さなますほ貝を、大事に持ち帰り大垣の門人たちへの土産にしたとのことです。
『其のあらまし、等栽に筆をとらせて、寺に残す。』等栽がその日の様子を記した書幅が、本降寺に所蔵されています。
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日隆上人の祈祷石を囲んで建てられた本隆寺の開山堂。
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開山堂の寂塚 (西行の歌碑と芭蕉句碑)
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「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」
この夕暮れの寂しさを「源氏物語」の須磨の浦の寂しさ以上と思ったのでしょう。
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西行歌碑
「潮染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」
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敦賀市街の西、大原山麓にある西福寺。浄土宗では北陸きっての名刹で、1400坪の書院庭園は、四季を通じて閑寂の趣が深く、国の指定名勝になっているとのこと。芭蕉が訪れたかどうかは不明。
総門
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三門
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曾良文学碑 山門前の右手奥にあります。
芭蕉の弟子、許六が旅姿の芭蕉と曾良を描いた「芭蕉行脚図」と曾良が書いた「曾良随行日記」の原本の一節(曾良が元禄2年8月10日、西福寺に立寄ったくだり)が刻まれています。
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御影堂 工事中でした
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阿弥陀堂
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大玄関
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書院庭園
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樹齢600年のスタジイ
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福井と滋賀の県境の峠にある民芸茶屋「とろろそば孫兵衛」で遅い昼食をとりました。
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店は西村家が経営しており、店の前に「芭蕉翁と西村家」という石碑が建っており、西村家は遠く村上源氏の出、この峠を開拓 ここ北陸街道の要所に問屋を営んだ旧家であり芭蕉とのゆかりが深く、おくのほそ道素龍本(国重文)を秘蔵していることなどが刻まれていまし
た。
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とろろそばを美味しく頂いたあと、御当主西村さんから、詳しい説明を頂き、国の重要文化財である「素龍清書本(西村本)」を拝観させていただきました。撮影は出来ませんが、複製品の撮影は自由でした。素龍清書本は『おくのほそ道』の原本の一つで、芭蕉が能書家である弟子の素龍に清書させたものです。
「月日は百代の過客にして 行きかふ年も又旅人也・・・・」の序章の部分
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大垣の章段の最後「・・・・・蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」
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題簽(だいせん=表題)のみが芭蕉自筆とのことです。
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この原本をなぜ西村家が所有しているのかを伝来図にして説明してくださいました。
芭蕉の兄に預けられた後、芭蕉の遺言により 弟子の去来に、去来の没後、 母方の久米升顕へ、升顕の娘が小浜の吹田几遊に嫁ぐ時に持参(引出物として)、敦賀の俳人琴路に渡り、さらにその親戚の西村家に伝わったとのことです。
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『おくのほそ道』原本の説明もして頂きました。
中尾本は平成8年に発見された芭蕉自筆本で七十数か所に及ぶ訂正の跡をとどめた草稿本です。門人 野坡のもとに伝来し、その後の行方の分からなかった野坡本のこと。現在中尾氏が所有しているので中尾本といいます。(野坡本=中尾本)
曾良本は、野坡本を筆写したものに芭蕉自身が改めて推敲し朱や墨で補訂を加えたもので、素龍が清書する際の台本となったもの。曾良随行日記と一緒に発見されました。
素龍清書本には柿衛(かきもり)本と西村本の2つがあるとのこと。
去来本は素龍清書原本を去来自身が筆写しとものとされているが、去来の筆跡かどうか分からないとのこと。
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説明のあと、道路の向側に建つ西村家の庭を案内してくださいました。
西村家(バスの窓越しに撮影)
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趣のある素敵な庭です。(デジカメの電池切れで携帯で撮りました)
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小高くなった場所に芭蕉句碑 「松風の落葉か水の音すゝし」 があったのですが、携帯のカメラに慣れてなくて撮れません。
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滋賀県長浜市の小谷城址(おだにじょうし)に立寄った後、良畴寺(りょうちゅうじ) に行きました。住職さんのお話を伺い、芭蕉句碑を見学し、琵琶湖大仏に登りました。もう辺りは暗くなって、携帯では何も撮れません。
良畴寺(りょうちゅうじ)の句碑は「四方より花咲き入れて鳰の海」。
鳰の海は琵琶湖のこと。門人の浜田珍夕の草庵を訪れての作とのこと。
また、干瓢の実の中に入った芭蕉翁木像がありました。懐中電灯を当ててもらい必死で撮った1枚
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この日の宿は長浜ロイヤルホテル。今回はツアーの最終回ということで、夕食会場にて卒業式?が行われました。参加者27名中15名が卒業(完歩)しました。
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毎回持って行った記録帳
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認定証
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記念品の電波時計と記念バッジ
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でも、まだ旅は終わりません。明日3日目がいよいよ大垣 、結びの地です。




















































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2013年12月14日 (土)

奥の細道を訪ねて第16回 (1日目)越前 芳春寺~湯尾峠~木の芽峠~敦賀

11月26日 奥の細道を尋ねるツアー全16回の最終回の朝です。今回は東京駅から新幹線で米原へ向かいました。良い天気ですが、西日本は?降られるかも?
新幹線の窓からは青空と白い富士山が大きく見えました。富士山はいつ見てもいいね!
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米原からはバスで越前市高瀬にある芳春寺(ほうしゅんじ)に向かいました。途中から やはり雨です。芳春寺は古く河濯権現(かわそごんげん)と呼ばれ、「河濯四光尊天」を御本尊に祀り、境内の芭蕉色紙塚は県内最古のものと説明版に記されていました。
芳春寺 本堂
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芭蕉翁之墓は、「古池や蛙飛込む水の音」の句を芭蕉が色紙に記し、弟子に渡し埋めたとされることから色紙塚というようです。入口の石碑には「芭蕉翁之塚」と刻まれています。
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真ん中が色紙塚、「芭蕉翁之墓」
芭蕉の墓碑に隣接するのは歌人宮崎童安の歌碑(向かって左)。(向かって右)は?墓碑の上部が欠けているようです。
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雨の中、芳春寺から紫式部公園まで歩きました。「ふるさとを偲ぶ散歩道」の看板が掲げられ、「ミニ庭園ゾーン」「歴史と文化ゾーン」「紫式部ゾーン」と続きます。
ミニ庭園ゾーンの芭蕉句碑
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『漸(やうやう)、白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嶽あらわる。』と本文に記載されている比那が嶽(現在の日野山ひのさん)を詠んだ句です。日野山は武生市の南境にある七九五メートルの山で付近では最高峰。山上に日永嶽神社があるとのこと。
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ここから見た日野山(比那が嶽)
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歴史と文化ゾーンの越前国印の碑
奈良時代の大宝律令で定められ、704年に鋳造に着手した諸国の印で大きさは方二寸(約6㎝)。今日、古文書に見られる国印は50余種あり、「大倭国印」「山背国印」のように四文字を篆書体で鋳たものであることなど、説明が刻まれていました。
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与謝野鉄幹の歌碑
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与謝野晶子の歌碑
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紫式部公園
越前の国主になった父藤原為時にしたがって、ここ武生に滞在した紫式部を偲んで造られた寝殿造の庭園がある公園です。紫式部が滞在したのは、20歳前の1年余りとのこと。紅葉がきれいでした。
入口
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釣殿
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紫式部像
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像の背後には歌碑と説明版が並んでいます。
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紫式部が見つめる先は日野山(比那が嶽)です。
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雨が急に明るくなって、日が射してきました。日照雨(そばえ)です。紅葉が輝いてとても綺麗!
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本文
『鶯の関を過ぎて、湯尾峠(ゆのをたうげ)を越えゆれば、燧が城、かへる山に、初雁を聞きて、十四日の夕暮、つるがの津に、宿をもとむ。 』
湯尾峠(ゆのおとうげ)は旧北陸道の要地として栄え、北の庄府中からこの峠を通り、今庄宿、木の芽峠、栃の木峠を経て京都に達しました。
登り口でバスを降り、峠を越えて今庄まで歩きました。
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恐ろしそうな名前の池に続く分れ道がありました。ちこべ と読みます。南北朝時代、上野ヶ原の合戦で、雪が血の海に染まった。その時討ち取った大将の首をこの池で洗い、池が血で赤く濁ったことから、血頭池(ちこべいけ)と呼ばれるようになった。現在でもチコベと云う地籍が残っている。と説明版に記されていました。
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山道は登ったあと、振り返って見るのが好きです。
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雨は上がったようで良かった。落ち葉を踏みながら登ります。
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峠ご膳井跡という標柱が立ってました。明治天皇の御巡幸があったとのことなので、その為の井戸があったのでしょうか?
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ちょっと急坂ですが、もうすぐ頂上です。
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頂上は広く、十字路になっていました。
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明治11年明治天皇北陸御巡幸の時に、御小休みされた記念碑。
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案内版の奥に見えるのは孫嫡子(まごじゃくし)神社。初めて聞く名前です。
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疱瘡神(ほうそうがみ)を祀っているとのこと。疱瘡(天然痘
てんねんとう)は、世界で初めて撲滅に成功した感染症です。感染力と致死率の大きさから、悪魔の病気と恐れられていたので、病状が軽く済むようにと祀ったようです。笠神、芋明神の別名もあるとのこと。
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神社の向かい側に建つ芭蕉句碑
「月に名を つつみかねてや いもの神」
句意が分からず調べてみました。

(日ごろは人目を忍ぶ痘瘡神(いもがみ)も、この月の光にはさすがに隠れかねたかして名を表わしている。) 
峠には、痘瘡(天然痘)除けのお守りの孫杓子を売る茶店があり、店頭にその看板を出す。それを踏まえて、月の縁語「芋」(芋名月)に「痘瘡」を掛け、痘瘡神が芋に引かれて現れたとの笑いを下心に込めた。芭蕉全句鑑賞(田中空音)参照
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頂上の茶店は四軒あって、大いに栄えたとのこと。壱千有余年の歴史を秘めたこの峠も、鉄道の開通によって、次第にさびれたようです。

ここから今庄へと下ります。黄葉の中、ふかふかの落ち葉に埋もれながら歩きました。黄葉の間から今庄が見えてきました。
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開けた場所に出ると、そこはトンネルの上でした。湯尾峠の真下を北陸鉄道のトンネルが通っているのです。
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トンネルの上から
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今庄側からの登り口です。(道標はもう少し下ったところにありました。)
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雨上がりの泥濘を歩き、
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線路沿いを歩くと
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特急が通過していきました。
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今庄は、江戸時代を通じ宿場として越前でもっとも繁栄し、その町並みは約1キロメートルに及び、家屋が立て込んでいた。特に中町には、福井藩、加賀藩の本陣や脇本陣、問屋、そして多くの造り酒屋、旅籠が集まり、高札場もあったとのこと。その面影が残る、静かで趣のある町の狭い道を、バスのドライバーさんに、くねくねとゆっくり走っていただき、S先生の説明を聞きながら車窓から街を見学しました。

木の芽峠に向かう途中、国道沿いにある今庄総合事務所前の芭蕉句碑に立寄りました。
ここから見える愛宕山の山頂部に燧ヶ城があり、ここで、木曽義仲の軍が平維盛に攻め落されたのを悲しんで詠んだ句です。
  義仲の寝覚めの山か月かなし
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バスが木の芽峠に着いた時、ぱらぱらと白いものが降ってきて地面に転がりました。霰です。すぐ近くなので傘も持たずに降りました。木の芽峠は今庄と敦賀市の境にあり、北陸道の要所でした。ここに古い民家が一軒ありました。峠の茶屋といい、越前の玄関口としての番所で、前川家がその任に当っていたところです。
木の芽峠の茶屋
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現在お住まいの前川さんは、平貞盛の末裔で40代目とのこと、いろいろとお話を伺いました。秀吉がここへ寄って家系図を見て主家筋と驚き、金ヶ崎の戦いの尽力などに感激して、もう一度武将に戻るか自分の部下になってくれと頼んだそうだがご先祖様はどちらも断ったので秀吉は金の茶釜をくださったそうです。
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峠の茶屋の前に道元禅師の供養塔が建っていました。道元禅師が病気により京都に帰るため、永平寺を出発し送ってきた弟子と別れた場所とのことです。
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峠からの眺め、駐車場のバスが見えます。
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前川さんから梨を頂きました。普通の梨よりかなり小さく何という種類かしら?玄関を入った所にどんと置いてあり、ジャガイモのように見えました。
(旅から帰ってからの写真です)
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割ってみるとやはり梨です。
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ホワイトリカーと氷砂糖で漬けました。Photo_16
1日目の宿は、敦賀マンテンホテル。ツインの部屋で、友人と隣合う部屋の鍵を別々に渡され? と思ったら中は一緒でした。其々にベット・デスク・テレビ・トイレなどがあり、個室と同じ、仕切りも出来るようになっていました。

 

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2013年11月21日 (木)

奥の細道を訪ねて第15回 (3日目)山中温泉~永平寺~安宅の関

10月20日 ツアー3日目、山中温泉の朝、心配した通りの雨です。芭蕉は旧暦7月27日(新暦9月10日)~8月5日まで山中温泉に滞在しました。本文
『温泉(いでゆ)に浴す。其の功、有間(ありま)に次ぐと云ふ。
   山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ
あるじとするものは、久米之助とて、いまだ小童(せうどう)也。かれが父、俳諧を好みて、洛の貞室(ていしつ)、若輩のむかし、爰に来りし比(ころ)、風雅に辱しめられて、洛に帰りて、貞徳の門人となつて、世にしらる。功名(こうめい)の後、此の一村(いつそん)、判詞(はんじ)の料(れう)を請けずと云ふ。今更、むかしがたりとは成りぬ。
曾良は腹を病みて。伊勢の国、長嶋と云ふ処に、ゆかりあれば、先立ちて行くに、
   ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原  曾良
と、書き置きたり。行くものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて、雲にまよふがごとし。予も又、
   けふよりや書付消さん笠の露  』

雨ですが、ひどい降りではありません。山中温泉を散策しました。
鶴仙渓(かくせんけい)は、こおろぎ橋から黒谷橋まで約1㎞、大聖寺川の渓谷です。こおろぎ橋へと下る坂道に芭蕉句碑がありました。ここで詠まれた句ですが、『おくのほそ道』に記載はありません。
    漁火に河鹿や波の下むせび  芭蕉
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こおろぎ橋 
名の由来は、落ちると危険な事から、「行路危」。また昆虫の蟋蟀とも。山中八景の一つ「高瀬の漁火」として有名なこの地に芭蕉は8月2日頃に訪れて「いさり火に・・・・・」の句を詠んだそうです。
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川に沿って遊歩道を歩きます。昨夜泊まった河鹿荘ロイヤルホテルが見え、遠方にあやとり橋が見えます。ここは昔、蛟竜(こうりゅう)が棲み、里人を困らせていたが、道明という僧がこれを退治した。という伝説のある深い渕で、芭蕉は7月29日と30日の両日訪れたとのこと。「道明渕の秋月」として、山中八景の一つです。蛟竜は中国の想像上の動物で、水中にひそみ、雲や雨にあって天上に登り龍になる
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あやとり橋の傍に、芭蕉句碑が建っています。「菊はたをらぬ」は「菊は手折らぬ」で、中国の桃源郷、菊慈童の逸話をもとに、「山中の湯に入ると、命が延びたように感じられる。そして湧き出る湯の匂いは、あの長寿延命の伝説のある菊を手折るまでもないほど、香ばしく立ちこめている」との句意。句意は」NHK講座テキスト参照
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鶴仙渓の景観。紅葉はまだですね。
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黒谷橋近くに芭蕉堂がありました。100年ほど前に、金沢の俳人の呼びかけで、芭蕉をしたう全国の俳人たちによって建てられたようです。中に芭蕉像が安置されているとのことですが、暗くて、撮れませんでした。ここには、桃妖(芭蕉が宿泊した泉屋の久米之助)の句碑、芭蕉堂建立発起人となった俳人の句碑、芭蕉堂建立の碑などが有りました。
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黒谷橋を芭蕉が訪れたのは8月1日。山中の俳人自笑の記録によると、芭蕉は平岩に坐して渓流の音を聴き「行脚のたのしみここにあり」と手を打って絶賛したとのことです。
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この歩いてきた道を「芭蕉の道」というのですね。
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芭蕉の館は、芭蕉が山中に滞在した当時は泉屋に隣接した湯宿で、元・扇子屋(桃妖の妻の実家)を修復したとのことです。この地は、曾良が腹を病み、伊勢国長島の縁故を頼ってひと足先に旅立ちたいと芭蕉に申し出た、芭蕉と曾良の別れの地でもあります。

 ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原  曾良
病の身ではあり、旅先で野たれ死にをするかもしれない。だが、風雅に生きるものとして、同じ野たれ死にをするのならば、折からの季節にふさわしく、萩の花の咲く野原で死にたいものだ。
 けふよりや書付消さん笠の露  芭蕉
今日からは曾良と別れて一人旅をしなければならなくなった。これからはもう、笠の裏に書き付けてあった「同行二人」の文字を、笠に置いた露で涙ながらに消してしまうことにしよう。(句意 NHK講座テキスト参照)
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館内には、芭蕉関連の資料を中心に、伝統工芸としての漆器・温泉資料などが展示されていました。
展示品 芭蕉真蹟の掛軸です。「菊はたおら」と書いてあるようですが?『おくのほそ道』では「菊はたをら」です。この句も推敲して直したのかしら?
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展示品 ますほの小貝は西行法師が敦賀の色の浜で歌に詠み、その後芭蕉も敦賀を訪れて句に詠んだ貝です。「ますほ」は「まそほ」と同じで、意味は赤い色です。桜貝のような、ベニガイとのことだそうです。敦賀は次回(最終回)のツアーの予定地です。拾えるかしら?
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泉屋跡  芭蕉は泉屋に八泊滞在しました。
『宿の主人は久米之助といい、まだ少年である。この少年の父は、俳諧を好んだ人であり、かつて京都の俳人貞室がまだ未熟な若年の時代に、この地にやってきた折、俳諧の事でこの少年の父に辱めを受け、それから京都に帰って貞徳の門人となってから発奮して励み、世にその名を知られるようになったのであった。功成り名を遂げた後も、貞室は、この山中の人々からは、俳諧の点料(指導料)を受けとらなかったということである。それも、今となっては昔話となってしまった。』と『おくのほそ道』に記されています。NHK講座テキスト参照
当時、久米之助は14歳。芭蕉は久米之助を弟子として認め、芭蕉の俳号「桃青」から桃の一字を与え「桃妖」を名乗らせたとのことです。
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菊の湯は男湯と女湯とが別館になっています。こちらは総湯菊の湯(男湯)。玄関前の道を隔てて足湯があります。「菊の湯」の名は、芭蕉が詠んだ句『山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ』に因んで付けられたようです。
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菊の湯(女湯)に並んで建つ山中座。豪華な蒔絵の絵天井など、格調高い舞台で演じる山中節の唄と踊りが鑑賞できます。私たちはお土産などを見ただけ。
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散策後、バスで向かった丸岡城
別名 霞ヶ城とも呼ばれ、満開の桜の中に浮かぶ姿がひときわ美しいとのこと。織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせた城で、現存する天守閣としては最古のものだそうです。勝豊以後、安井、青山、今村、本多(4代)、有馬(8代)の居城を経て維新となりました。
天守閣 石垣の傍に“一筆啓上”書簡碑があります。
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“一筆啓上”書簡碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑。これは、徳川家康の家臣 本多作左衛門重次が、陣中から家族あてに書き送ったもので、最も短い手紙文を記念した碑です。講師の先生の説明に、この辺りは火事が多かったようです。お仙は重次の嫡男仙千代君のことで、仙千代君は脱腸だったのであまり泣かせないようにと。戦国時代馬は大事なので、よく世話をして良い馬を育てなさい。ということのようです。仙千代は後に丸岡城主(初代丸岡藩主 本多重成)となります。手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」だそうです。かしくは女性の手紙ですが、当時は男性も使っていたとのこと。雨でよく読み取れません。
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天守閣の左手には芭蕉句碑があります。『猿蓑』(去来・凡兆共編)の冒頭句です。
   初しぐれ猿も小蓑をほしけ也  芭蕉
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句碑の傍のこれは?
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天守閣に登りました。かなり急な階段で、手すりと綱が付いています。
天守閣から
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丸岡城を後に永平寺に向かいました。本文
『五十丁、山に入りて、永平寺を礼(らい)す。道元禅師の御寺(みでら)也。邦畿(ほうき)千里を避けて、かゝる山陰に跡を残し給ふも、貴き故有りとかや。』
『街道から五十丁ばかり山の手に入り、永平寺を礼拝した。永平寺は道元禅師の開かれた寺である。都に近いところを避けて、こんな山陰に教えの跡としての寺をお残しになったのも、仏道修行に対する深い配慮があったからということである。』 NHK講座テキスト参照
正門
大きな二本の石柱。一つは、先生に教えていただいた「杓底一残水」(しゃくていのいちざんすい)、もう一つは、「汲流千億人」と書かれています。「ながれをくむせんおくのひと」と読むそうです。二つ合わせると「一杓の水でも、元の川へ流れることによって多くの人が恩恵にあずかる」という禅的表現とのことです。
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唐門 正門を進むと正面に見えてくる勅使門(宮中からの勅使などが入山する際の門)です。
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唐門の手前、左手の通用門をはいると吉祥閣。参拝者の受付、講堂、宿泊施設のある建物です。ここで靴を脱ぎ、雲水さんの説明を伺ってから、その先を案内をしていただきます。

吉祥閣」の隣が「傘松閣」
160畳敷きの大広間です。旧傘松閣の建立された当時(昭和5年)、一流の日本画家144名による花鳥彩色画230枚の絵天井の間でした。

回廊を渡って山門へ
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山門 二階には、五百羅漢が祀られていて、中央に後円融天皇の勅額が掲げられていとのこと。、
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吉祥の額 「吉祥山永平寺」の名前の由来が掲げられています。
両側の柱には、ここは出家修行の道場であり家風はすこぶる厳格である。求道心の在る者のみ、この門をくぐるがよい、と入門の第一関を提起しています。山門を門として使用できるのは禅師さまと上山し修行に入る雲水さんだけ。参拝者が外に出ることは許されません。
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両側に安置されている四天王(仏教の守護神)Photo_20

中雀門 山門と仏殿の中間に位置する門。
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大庫院 一階は台所、玄関正面に韋駄尊天が祀られ、柱には「大すりこぎ」が掛かっています。二階は来賓接待の間、三階は大広間に伊藤彬画伯の襖絵があるとのこと。
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大庫院玄関正面の韋駄尊天
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大すりこぎ棒
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瑞雲閣 大庫院の一部
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僧堂 雲堂、座禅堂とも呼ばれ、修行の根本道場。文殊菩薩を安置し、その周りに約90人が座禅できる席が設けてあるようです。
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階段状回廊 
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仏殿
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仏殿内部 須弥壇(しゅみだん)と呼ばれる壇の上に本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、三体の仏像は過去・現在・未来を表しているそうです。
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法堂 禅師様の説法の道場で、朝のお勤めなどの各種法要もここで行われるそうです
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法堂内部 中央に聖観世音菩薩が祀られており、階段の左右に阿吽(あうん)の白獅子が置かれています。
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承陽門と承陽殿 永平寺の御開山道元禅師の御真廟いわばお墓(お霊屋)です。
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承陽殿内部 道元禅師の御尊像と御霊骨、二祖~五世禅師の御尊像などが祀られ、拝殿には歴任禅師の御位牌、全国の曹洞宗寺院住職の御位牌など、が祀られているそうです。
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鐘楼堂 除夜の鐘で有名な大梵鐘は重さ約五トン。一日に朝・昼・夕方・夜の四回、一撞くごとにお拝をして、修行僧が尽くとのこと。
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一文字廊と仏殿
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本文
『丸岡、天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。又、金沢の北枝と云ふもの、かりそめに見送りて、此の処まで、したひ来る。所々の風景、過ぐさず、おもひつゞけて、折節、あはれなる作意など聞こゆ。今既に、別れに臨みて、
   物書きて扇引きさく名残哉  』

芭蕉は古いゆかりのある人が住職をしている天龍寺を訪ねました。金沢の北枝が、ほんのそこまでと云うことだったが、とうとう此処までついて来た。と記されています。
天龍寺 山門と芭蕉塚(右端)
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本堂と境内
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余波(なごり)の碑
金沢からの道すがら、北枝は所々の風景を見逃さず、句に案じ続けて、折々には情緒深い句を作って聞かせてくれたのであった。芭蕉は、いよいよ別れるにあたって、『物書きて扇引さく名残哉』と詠みました。実際に扇を引裂くのか?それとも、引裂くような気持ちという比喩か?強烈な別離のイメージです。NHK講座テキスト参照
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芭蕉句碑
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一人になった芭蕉は天龍寺の後、永平寺に参詣し(たぶん遥拝)、福井に向かいます。本文
『福井は、三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆうめし)したためて出づるに、たそかれの道たどたどし。爰(ここ)に、等栽と云ふ、古き隠士有り。いづれの年にや、江戸に来(きた)りて、予を尋ぬ。遥か十(と)とせ余り也。いかに老さらばひて有るにや、将(はた)、死にけるにやと、人に尋ね侍れば、いまだ存命して、そこそことをしゆ。市中ひそかに引き入りてあやしの小家に、夕顔・へちまの、はえかゝりて、鶏頭・はゝ木ゝに、戸ぼそをかくす。扨(さて)は、此のうちにこそと、門を叩けば、侘しげなる女の出でて、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは、このあたり、何某と云ふものゝ方に行きぬ。もし用あらば、尋ね給へ」と云ふ。かれが妻なるべしと、しらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋ねあひて、その家に二夜とまりて、名月は、つるがの湊にと、旅立つ。等栽も、共に送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折(しおり)と、うかれ立つ。 』

芭蕉は、福井では、もう大分年老いているはずの等栽と云う人を尋ねました。みすぼらしい小さな家で、侘しげな女が出てきて、主人は近くの人の家に行ったので、用があるならそちらへと、無愛想な対応をしますが、芭蕉はこの家に二泊した後、名月を敦賀で眺めようと、旅立ちます。等栽も道案内をしましょうと浮かれた様子です。
等栽宅跡
正確な場所は分かりませんが、等栽が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、左内町の顕本寺に建てられたことが明らかになり、この近所に住んでいたことがわかったそうです。
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芭蕉句碑 等哉を訪ねた折の作ですが、『おくのほそ道』本文に記載は有りません。   
   名月の見所問ん旅寝せむ
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等栽宅跡のすぐ近く、お市の墓があると先生が案内してくださいました。歩いて2~3分かしら?西光寺です。
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柴田勝家と市のお墓
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北の庄の礎石
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本文
『漸(やうやう)、白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嶽あらわる。あさむづの橋を渡りて、玉江の芦は、穂に出でにけり。鶯の関を過ぎて、湯尾峠(ゆのをたうげ)を越えゆれば、燧が城、かへる山に、初雁を聞きて、十四日の夕暮、つるがの津に、宿をもとむ。 』
玉江の橋
この辺りは、昔は低い土地で、よく川が氾濫するし、排水も不十分だったため、いつも沼のようになっていた。そして一面に芦が茂っていた。芭蕉がこの地を訪れたとき、「月見せよ玉江の芦を刈らぬ先」の句を詠んで以来、その名が知られるようになった。との説明版が立っていました。向かって右は「親鸞聖人御遺跡」と刻まれています。
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あさむつ橋 清少納言が『枕草子』で「橋はあさむつの橋」とあげ、催馬楽にも歌われて以来、藤原定家、松尾芭蕉らの歌句に詠まれた歌枕の名所
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向い合せに、西行法師の歌と芭蕉の句が刻まれています。
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越に来て富士とやいはん角原の
        文殊かたけの雪のあけぼの  西行
 
朝六つや 月見の旅の 明けはなれ     芭蕉
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小松空港へ向かう帰路の途中、片山温泉の近くの篠原新町にある実盛塚を見学しました。
実盛塚入口
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実盛塚 源平の争乱の中、篠原の地で命を失った斉藤実盛を供養するために実盛の亡骸を葬ったと伝えられているところです。
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篠原古戦場跡
倶利伽羅峠で大敗を喫した平家が態勢を立て直し木曽義仲率いる源氏に戦いを挑んだ場所です。
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劣勢の平家軍の中で斉藤別当実盛がただひとり一騎踏みとどまって戦った。実盛は、老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦したが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最後を遂げた。樋口次郎兼光が討ち取った首を池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わった。実盛は、かつて義仲の父義賢が源義平に討たれた際に、幼い義仲を木曽に逃した恩人だったのである。(説明版より)
首洗池
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池畔には実盛の首級を抱く義仲と樋口次郎、手塚太郎の銅像や芭蕉の句碑がたっていました。
左から木曾義仲、樋口兼光、手塚太郎光盛
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実盛の首級を抱く義仲の像
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芭蕉句碑
   むざんやな兜の下のきりぎりす』
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最後に立寄った安宅公園 安宅の関(あたかのせき)
PM5:42 晩秋の日暮れは早い!もう真っ暗、懐中電灯を使いました。「こんなに暗くなるとは思わなかった」と先生も残念そう・・・
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兄、頼朝に追われた義経が安宅の関を通る際、関守・富樫の厳しい尋問にあい、その危機を乗り切るため弁慶は、偽の巻物を広げて即興で「勧進帳」を読み上げ、さらに嫌疑がかけられると、主君である義経を打ち据える。その姿に感動した富樫が通行を許可した。という勧進帳の像
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長く感じた一日でした。空港内の食堂で夕食を済ませ、小松19:50発、羽田20:55着、21:40発 所沢行のバスで無事帰宅しました。次回はいよいよ最終回、完歩出来そうな予感です。(芭蕉と曾良さんのように歩いた訳ではないけどね)

 

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2013年11月10日 (日)

奥の細道を訪ねて第15回 (2日目) 小松天満宮~医王寺(山中温泉)

10月19日 、2日目は小松から、最初に訪れたのは小松天満宮。加賀三代藩主利常が、前田家の氏神の菅原道真を祭神として、小松城鎮護のために創建したのが始まりで、以来前田家歴代によって手厚い庇護を受け、社運は隆盛したとのこと。本殿・拝殿、神門などが国の重要文化財になっています。
鳥居と神門
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本殿・拝殿
冬に備えて、雪囲いがしてありました。
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十五重の石塔 
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十五重の塔というのは珍しいかしら?説明版です。
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芭蕉は小松天満宮に連歌を奉納する同意を得ていたが、別当職だった連歌師(能順)との考え方の違いにより連歌奉納は出来なかったようです。ここに建つ芭蕉句碑もその連歌会の句ではありません。
   あかあかと日は難面も秋の風  芭蕉
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現在、小松天満宮周辺の梯川改修工事が進められていますが、国指定重要文化財である小松天満宮を現在の位置に保存したまま実施しているとのことです。
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莵橋神社(うはしじんじゃ)
地元では“諏訪さん”とよばれて親しまれている古社で、曾良の日記によれば、芭蕉はこの社の祭りの事を聞き、参拝して祭りを見物したようです。
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二の鳥居の前にある手水舎
ここで、講師の先生から正しい手水の作法を実践で教えていただきました。「杓底一残水」と云うそうです。杓にたっぷりと水を取ったら一歩下がって、左手、右手、左掌に受けた水で口を漱ぎ、残った水が杓の柄を伝うように手前に傾ける。ここまでは私も知っていました。その次が「杓底一残水」。杓を傾けても杓の底に僅かな水が残ります。これは全くきれいな水なので捨てずに元の場所に戻す。一滴の水も大切に!ということですね。
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二の鳥居
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本殿
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一の鳥居の向かい側に芭蕉句碑が建っています。すぐ脇に句碑はこちらではないか?と思われる石がありましたが、やはり、その石が最初の句碑で、風化が激しく文字も読めなくなったので、新しい句碑を建てたようです。
本文  小松と云ふ処にて
    しをらしき名や小松吹く萩すゝき  』 

Photo_14Photo_15

莵橋神社前の通りの向こう側に、すわまえ芭蕉公園があり、芭蕉句碑がありました。奥の細道の道中、小松で開かれた連句会の発句です。本文への記載はありません。
  ぬれて行や人もをかしき雨の萩   芭蕉
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この句を発句とした五十句が句碑の後ろに刻まれています。Photo_17
建聖寺(けんしょうじ)
芭蕉は小松に一泊の予定でしたが、地元の俳人たちの懇願に快諾し三泊することとなりました。芭蕉が二泊した建聖寺の山門に、はせを留杖ノ地と刻んだ石柱が建っています。
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建聖寺には、芭蕉十哲の一人、立花北枝が彫ったという芭蕉坐像(木像)があり、拝見させていただきました。
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境内には芭蕉句碑があります。二つ並んで、どちらも
   志ほらしき名や小松ふく萩すゝき   芭蕉
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本折日吉神社(もとおりひよしじんじゃ)
芭蕉はここで開かれた句会で「しほらしき名や・・・」の句を詠んだとのこと。
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境内に建つ芭蕉句碑
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神社の入口と境内に猿の像を見かけましたが、これらの猿は大神様の神使で神猿魔去(マサル)と呼ばれ、神様のお使いである猿は真猿(マサル)で、マサルは魔去る、勝るで一切の魔を払い去ることを意味しているとのこと。
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多太神社(ただじんじゃ) 本文
『此の所、太田の神社に詣ず。実盛が兜、錦の切れあり。其の昔(かみ)、源氏に属(しょく)せし時、義朝公よりたまはらせ給ふとかや。げにも、平士(ふらさぶらひ)のものにあらず。目庇(めびさし)より吹返しまで、菊から草のほりもの、金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に、鍬形打つたり。実盛、討死の後、木曽義仲、願状にそへて、此の社(やしろ)にこめられ侍るよし。樋口の次郎が使ひせし事共、まのあたり、縁起に見えたり。
  むざむやな甲の下のきりぎりす 』

社宝の兜は、源平合戦の時、木曽義仲が奉納した齋藤別当実盛公の兜で、芭蕉はその兜によせた感慨の一句(むざむなや甲の下のきりぎりす)を捧げました。
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入口に建つ兜の説明Photo_29参道に建つ齋藤実盛公の石像
倶利伽羅峠合戦で大敗を喫した平家は加賀の篠原で再陣して対峙したが、木曾義仲軍の前に挽回叶わず総崩れとなった。この時、踏みとどまって平宗盛より拝領の直垂(ひたたれ)と、げに平士のものにあらずの菊唐草に鍬形の兜で若やかに勇戦討死にしたのが実盛公でした。実盛公は、かって幼い義仲将軍の命を救った恩人で、老いの身を侮られまいと白髪を染めていた。首級を洗わせた義仲将軍は涙の対面の後、懇ろに弔い、その甲冑を多太八幡宮に納めました。時に実盛公73歳であったとのことです。神社で頂いたパンフレットより

実盛は、もとは越前の住人で、はじめ源義朝に仕え、保元・平治の乱に従軍しましたが、義朝が滅亡した後は、母方の縁で今度は平家方の宗盛に仕え、源氏方の木曽義仲追討の戦いに出陣するにあたっては、「故郷に錦を飾る」という諺により、宗盛より錦の直垂を着用することを許されたとのことです。かつて木曾に入る前の二歳のとき、実盛のところで七日間養育を受けたことのある義仲は、家臣手塚太郎が持参してきた首 きれいに洗われて元の白髪になった実盛の首に涙を流し、昔の恩に報いるため、実盛に対する手厚い回向を命じたとのことです。
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芭蕉の石像Photo_32芭蕉句碑
兜を拝観して芭蕉が詠んだ句は、義仲の家臣樋口次郎兼光が首を検めた時「あな無慚やな、実盛にて候ひけるぞや」という文句をそのまま借りた「あなむざむやな甲の下のきりぎりす」であったが、のちに「あな」の二字を捨てて口調を整えたようです。句碑の文字が「むざ」となっているのがちょっと気になる私です
   むざむやな甲の下のきりぎりす   芭蕉
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実盛の兜・他、拝観させていただき、いろいろなお話をお聞きして、帰るとき、出口に実盛の兜など5枚の絵葉書、1枚100円が目にとまり、兜だけ1枚買おうと思ったら、5枚セットでした。欲しいのは兜だけなので、ちょっと躊躇したら、「こちらなら差し上げます」って、いっしょに並んでいた背景色が違う兜の絵葉書を渡されました。「えっ」ってびっくりしたら、こちらは古いものだからとのことです。有難うございました。嬉しかった!!その後、講師の先生が戻って来られるのにすれ違いました。?と思ったけど、バスの中で、先生が「絵葉書1枚づつだけど、ひとり貰っていった方があるので、きっちり23枚(参加者24名)です」って。やっぱりいい先生です。
実盛の兜の絵葉書
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先生はもう1枚、加賀藩主が安産と子育てを祈願して奉納した神宝の絵葉書も頂いていました。Photo_3
那谷寺(なたでら) 本文
『 山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が嶽、跡に見なしてあゆむ。左の山際に、観音堂有り。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名付け給ふと也。那智・谷汲の、二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松(こしょう)植ゑならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
   石山の石より白し秋の風  』


芭蕉は、『山中温泉に向かって行く途中は、白山(白根が嶽)を後方に見ながら歩いていく。左の山際に観音堂があった。花山法皇が西国三十三か所の順礼をお果しになった後、観音像を安置して、那谷寺と名付けられたということだ。那智と谷汲の頭の二字をとって付けられた名だという。奇岩がさまざまに重なり、古い松が生え並び、萱葺きの小さなお堂が、岩の上に懸造りにしてあって、尊くすばらしいところである。』 と書いています。
那谷寺 山門
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金堂 華王殿(けおうでん)
御本尊は十一面千手観音
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庫裏庭園
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参道
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奇岩遊仙境
太古の噴火の跡と伝えられ、長い年月の間に波に洗われ、今日の奇岩が形成されたようです。
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本堂・拝殿が見えてきました
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本堂へと続く門を入り、石段を登ると
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大悲閣拝殿
岩窟中腹に建てられ、唐門は岩窟入口、本殿は岩窟内にあります。
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拝殿からの眺め
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三重塔と風月橋Photo_12
風月橋を渡ると展望台・山上鎮守堂が見えてきました。
鎮守堂からみた遊仙境
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芭蕉句碑
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左が句碑 石山の石より白し秋の風
右は翁塚と刻まれ、奥の細道の本文が刻まれていました。
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山中の温泉を行くほど・・・・・
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 那谷寺の敷地内ですが、若宮白山神社
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那谷寺、紅葉には少し早かったようです。

昼食後は芭蕉が宿泊した全昌寺です。芭蕉は山中温泉で曾良と別れた後、この全昌寺を訪れました。私たちはこれから山中温泉に向かうので、芭蕉の行程とは少し前後します。本文
『大聖持の城外、全昌寺と云ふ寺に泊まる。猶、かゞの地也。曾良も、前の夜、此の寺に泊まりて、
   終夜(よもすがら)秋風聞くやうらの山
と残す。一夜の隔て、千里におなじ。我も、秋風を聞きて、衆寮(しゆれう)に臥せば、明けぼのゝ空ちかう、読経すむまゝに、鐘版鳴つて、食堂(じきだう)に入る。けふは、越前の国へと、心早卒(さうさつ)にして、堂下に下るを、若き僧共、紙・硯をかゝへて、階(きざはし)のもとまで追ひ来(きた)る。折節、庭中の柳散れば、
   庭掃きて出でばや寺にちる柳
とりあへぬさまして、草鞋(わらぢ)ながら、書き捨つ。 』

全昌寺 山門
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山門は閉まっているので、拝観入口から
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本堂
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本堂に芭蕉の弟子の杉山杉風が造ったといわれる芭蕉像がありました。
Photo_39Photo_44芭蕉が宿泊した部屋は茶室として復元されています。
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芭蕉塚と曾良の句碑
芭蕉の句は石碑の側面に刻まれていると有りますが、見落としました。
Photo_29Photo_30芭蕉塚に並んで芭蕉句碑がもう一つ
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他に深田久弥句碑、木圭句碑などが有りました。
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奥の細道の全昌寺の章段 を刻んだ文化句碑
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羅漢堂の五百羅漢像は江戸時代末期の作で517体の仏像が完全に具備し、仏工の仕様書、一体一体の寄進者を記録した台帳が現存し、造立年代、願主、世話人、寄進者まで明確に知り得ることは全国的に見てもまれなことである。とのこと。
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汐越の松 本文
『越前の境、吉崎の入江を、舟に掉して、汐越の松を尋ぬ。
   終夜(よもすがら)嵐に波をはこばせて
        月をたれたる汐越の松     西行
この一首にて、数景(すけい)尽きたり。若(も)し、一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。  』

福井県あわら市にあった景勝地でしたが、現在はゴルフ場になっており、職員の案内で中を通してもらって行きました。
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松ぼっくりに交ってゴルフボールがいくつも落ちています。
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すぐ下が海岸です。枝が海面上に伸びて潮を被ることから潮越しの名が付いたようです。
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芭蕉が道中に眺めた白山、すこし雪をのせていました。
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芭蕉とも奥の細道とも関係なさそうですが、吉崎御坊跡に立ち寄りました。現在は跡地に「史跡吉崎御坊跡」の石碑が立ち、本堂跡、蓮如上人御花松、蓮如像、本光坊了顕のお墓(蓮如上人のお弟子さんで、火事の時、火中のお聖教を取りに入り、火中で自らの腹を割き、腹中にお聖教を納めて守り焼死したと伝えられている)などあり、御坊に向かう階段の西に浄土真宗本願寺派の別院、東に真宗大谷派の別院があり、西御坊・東御坊と呼ばれています。
吉崎御坊跡へ
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吉崎御坊
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西御坊
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東御坊
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蓮如上人の像
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二日目の最後は宿のある山中温泉の医王寺です。曾良の日記に、薬師堂と記されているのがこの医王寺とのことで、芭蕉も立寄ったのでしょう。
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この寺にも芭蕉坐像がありました。
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芭蕉が忘れたという杖もありました。ほんとかしら?
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住職さんがお話のあとに山中節を披露してくださいました。住職さんの山中節、素晴らしいです!肉声なのに、私の補聴器がピイーピイーと共鳴するのではずしました。こんなこと初めてです。外に出たらもう暗くなり始めていました。芭蕉句碑もあったようですが、ツアー配布の資料にその記載がなく、全く気が付きませんでした。それとも、皆さんが写真を撮っているので、後にしようと思ったまますっかり忘れちゃったのかしら???その可能性大です。

宿は山中温泉 河鹿然荘ロイヤルホテル。今回初めて、お土産などの荷物を宅急便で送りました。3日目はもうお土産を増やせません。



























































 

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2013年11月 3日 (日)

奥の細道を訪ねて第15回 (1日目) 金沢(妙立寺~ひがし茶屋街)

奥の細道を訪ねるツアー 、15回目は金沢から福井までの2泊3日。このツアーでは初めての飛行機利用でした。
10月18日 AM 3:15起床、夫と息子の朝食を用意し、自分は前日のおでんを少しつまみ、4:20に家を出て5:00発のリムジンバスで羽田空港へ。天気は上々!羽田発7:55、小松までは1時間足らず、アルプスかしら?少し雪をのせて、山々がきれいでした。Photo

小松からはバスで金沢へ向かいました。
本文『卯の花山、くりから谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に、大阪よりかよふ商人(あきんど)、何処(かしょ)と云ふもの有り。それが、旅宿をともにす。』

私たちが最初に訪れたのは妙立寺(みょうりゅうじ)でした。忍者寺とも言いますが、忍者の寺ではありません。聳え立つ屋根の天辺は望楼、本堂には武者隠し、隠し階段が沢山あり、落とし穴あり、切腹の間ありと様々な仕掛けのある寺でした。幕命で三階建て以上の建築が禁止されていたので、外観は2階建てだが、内部は4階建て7層にもなっています。部屋数が23、階段が29ヵ所、金沢城に通じているといわれる井戸もありました。加賀藩三代藩主 前田利常公が金沢城近くから移築建立した寺で、いざという時に備えた要塞のような寺でした。
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本文『一笑と云ふものは、此の道にすける名の、ほのぼのと聞こえて、世に知る人も侍りしに去年(こぞ)の冬、早世したりとて、其の兄、追善を催すに、
      塚もうごけ我が泣く声は秋の風
        ある草庵にいざなわれて
      秋すゞし手毎にむけや瓜茄子
        途中唫
      あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風  
        小松と云ふ処にて
      しをらしき名や小松吹く萩すゝき  』 

    
妙立寺に並んで建つ願念寺(小杉一笑の菩提寺)に芭蕉句碑と一笑塚がありました。
芭蕉句碑が建つ、願念寺山門
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一笑の兄の開いた追善の句会で、芭蕉が一笑の霊に手向けた一句
 塚もうごけ我が泣く声は秋の風Photo_3本堂と境内の一笑塚(一笑の辞世を刻んだ句碑)
  こころから雪うつくしや西の空
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この辺りは寺町といい、70ヶ寺も建っているそうです。
本長寺(ほんちょうじ)に芭蕉句碑がありますが、おくの細道との関係はないようです。
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元禄6年1月(奥の細道行脚は元禄2年)に、許六(蕉門十哲の一人、絵では芭蕉の師))の江戸旅亭で描いた俳画の画賛。元からあった句碑は風化激しく、昭和57年に刻み直したもの。(説明版より)
  春もやや気色ととのう月と梅  
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成学寺にも芭蕉句碑があります。
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芭蕉翁追悼のため俳人堀麦水とその門人が建てた句碑とのこと。正面に芭蕉翁と大きく刻まれ、句は背面です。金沢から次の小松に至る途中で詠まれた句です。
   あかあかと日は難面も秋の風  芭蕉 Photo_12
長久寺は加賀藩初代藩主前田利家の妹、津世の菩提寺だそうです。
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境内には樹齢400年という銀木犀が2本あり、その根元に芭蕉句碑があります。
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金沢に滞在中の句会で詠まれた句
   秋涼し手毎にむけや瓜茄子
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日本の三大名園の一つである兼六園での昼食後、園内を散策しました。
山査子(さんざし)が赤い実を沢山つけ、また、2日前の台風で落ちたのか?株元にも沢山散らばっていました。
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徽軫灯籠(ことじとうろう)は兼六園のシンボル的存在。足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付き、水面を照らすための雪見灯籠が変化したものだそうです。
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11枚の赤戸室石で雁が列をなして飛んでいる姿に造られている雁行橋。  石の一枚一枚が亀の甲の形をしているので亀甲橋ともいうようです。
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鏡池。池の中の島は蓬莱島といい、不老長寿をあらわしているとのこと。
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近江八景の一つ、琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松。雪の重みによる枝折れを  防ぐための雪吊りは兼六園ならではの冬の風物詩です。
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眺望台からの眺め
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少し黄葉が始まっています
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広い園内、管理手入れも大変です
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園内を見下ろすようにそびえ立つ像がありました。日本武尊の像で西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑とのことです。銅像の成分を嫌い烏などが止まらないとのことです。また、台石に組まれた大きな石を大蛇、ナメクジ、ガマに見立て、それらが互いににらみ合う「三すくみ」の状態にあるので崩れないのだそうです。Photo_28

根上松(ねあがりまつ)。13代藩主前田斉泰が、稚松を高い盛土にお手植えし徐々に土を除いて根をあらわしたものだそうです。
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散策の最後にやっと芭蕉句碑です。
  あかあかと日は難面も秋の風
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Photo_27

芭蕉は金沢に滞在中、地元俳人の案内で訪れた金石(旧宮の越、北前船の発着場であった)で句を詠みました。その句碑が金石の本龍寺にありました。
本龍寺山門と本堂
Photo_2
句碑の説明版によると、芭蕉が連句指導のために金石に立ち寄った際の連句の発句であるとのこと。奥の細道の本文への記載はありません。
   小鯛さす柳すずしや海士が軒
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本龍寺には海の豪商 銭谷五兵衛のお墓もあります。説明版によると、両替商、古着呉服・材木商など営み、廻船業に乗り出したのは39歳、質流れの古船で米を運んだのが最初、自他ともに海商と認めるのは58歳頃、「海の百万石」と云われる豪商となるも、晩年、偶発の死魚中毒事件で身に覚えのない罪に問われ獄中で80歳の生涯を閉じたとのこと。
Photo_5

芭蕉は小坂神社に参拝、句会も開かれたようです。
小坂神社
Photo_7
石段の右手に「芭蕉翁巡錫地」と刻まれた石碑がありました、石碑の側面に「此の山の神にしあれば鹿に月」の句が刻まれているらしいのですが(私は皆に遅れて説明を聞き逃し、句が刻まれているのに気付かなかった)、石碑の脇にこの句が芭蕉の句であると掲示されています。が、「芭蕉全句鑑賞」で調べてもこの句は出てきません。曾良の句でしょうか?立花北枝の句に「此の山の神にしあれは鹿に」というのがあるようで? 小坂神社の説明版では、「此の山の神にしあれば鹿に月」は芭蕉の句、「此神の山なればこそ花に鹿」が北枝の句であると記載されています。 う~ん、なにかすっきりしません。
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心蓮社
芭蕉が金沢を訪れた際に入門し、越前丸岡まで芭蕉に同行した立花北枝(蕉門十哲の一人)のお墓と句碑があります。
デジカメがAUTOからずれてブルーがかかった写真になってしまったので、グレースケールにしました
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北枝のお墓と句碑
  しくれねば又松風の只をかず  北枝
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日本文学研究家のドナルド・キーン氏が「落陽の光景が金沢一の寺」と絶賛したという宝泉寺への坂道。子来坂
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寺の手前に芭蕉句碑がありました。
   ちる柳あるじも我も鐘をきく  芭蕉
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宝泉寺
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境内の五本松 
五幹に分かれた老松。天にそびえ天狗が住むという。泉鏡花の小説に『この神木に対して、少しでも侮辱を加えたものは立処にその罰を蒙る』とある。現在の松は三代目。(説明版より)
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五本松から見た金沢市街
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ひがし茶屋街を散策、買物を楽しんで1日目が終わりました。Photo_16

宿は金沢マンテンホテル。夕食には30分程間があったので金沢駅まで行ってみました。5分ぐらいの場所でしたが、帰りに出口を間違えてウロウロ。夕食会場に10分ほど遅れたら、私たち二人の席がありません。食事中の人の数を数えるとツアー参加者より一人多い?結局他の方が一緒に入ってしまったようです。食事の余分がないとのことで、30分待たされました。急ぐこともないので、まっ いいか。












   

  
 

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2013年10月 5日 (土)

奥の細道を訪ねて第14回 (3日目) 高岡大仏(富山県)~倶利迦羅不動尊(石川県) 

9月8日、雨が降っていました。朝食前の散策はせず、テレビの前に。オリンピック東京の開催はなるか?見守りました。「 東京ッ !」突然の一言。感激です。次に思いました。私は見ることが出来るのかしら?...

本文
『くろべ、四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云う浦に出づ。坦籠(たご)の藤波は、春ならず共、初秋(はつあき)の哀れ、とふべきものをと、人に尋ぬれば、「是より五里、磯づたひして、むかふ山陰に入り、蜑(あま)の苫(とま)ぶき、かすかなれば、芦の一夜(ひとよ)の、宿かすものあるまじ」と、云ひおどされて、かゞの国に入る。
  わせの香や分け入る右は有そ海  』

芭蕉は歌枕で知られる坦籠(たご)に行きたかったが、土地の人から泊まる宿もないところだと警告されて、これを断念し、加賀の国に入りました。

芭蕉が歩いた高岡。私たちが最初に訪れたのは高岡大仏(銅造阿弥陀如来坐像)です。奈良、鎌倉につぐ日本三大仏に数えられており、完成までに30年の歳月を掛けたとのこと。最初は木造の大仏でしたが、明治の高岡大火災で焼けてしまい、御尊顔のみが焼残り、台座の中に安置されていました。
高岡大仏
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美しいお顔に、心が安らぎます。円輪光背の頂点に配された梵字は(キリーク)といい、阿弥陀仏の仏徳を一字で表したものだそうです。台座の中は回廊になっており、なで仏、仏画、焼残った御尊顔などを自由に拝観できます。
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加賀藩二代藩主、前田利長公(前田利家の嫡男)の墓所を訪ねました。
利家の時代は、まだ江戸幕府の開幕前で厳密には初代藩主ではなく、利長が初代藩主では?と疑問ですが、前田家の礎を築いた人物ということで、利家が初代ということだそうです。
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武将のものとしては全国一の高さの石塔だそうです。立入禁止、入れるのは鳥居まで。
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墓所を出て、瑞龍寺に向かいました。墓所前に立っていた案内版
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瑞龍寺は、前田利長菩提のため建立した曹洞宗の巨刹。三代藩主前田利常が33回忌に造営したもので、13万㎡。中国の寺院建築を模したという七堂伽藍を備え、周囲に堀をめぐらした大寺院であった(ツアー配布の資料より)。 松嶋の瑞巌寺と同じく、前田城に何かあった時は城の代わりにもなるように造られたそうです。墓所と瑞龍寺を結ぶ参道の長さは八丁(870m)、松並木と石畳の真直ぐなこの参道を八丁道といいます。
参道途中に建つ利長公の像
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総門(重要文化財)
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山門(国宝)
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仏殿(国宝)
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法堂(国宝)
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禅堂(重要文化財)
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大庫裏(重要文化財)
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整然とした伽藍構成が気持ちよく、美しい寺院でした。
総門の傍に掲示されていた伽藍配置図
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法堂から裏口に出た所にある石廟(県指定文化財)
手前から利長公、利家公、織田信長公、同室正覚院、織田信忠公(人陰になってしまった)です。利長の正室は織田信長の娘(永姫)、織田信忠は信長の嫡男で本能寺で信長が討たれた時、共に二条御所で明智光秀に討たれました。
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芭蕉が行きたかったけれど、土地の人におどされて行かなかった藤波神社。芭蕉さんに代わって参拝しました。藤波神社は大伴家持から授かった太刀を御神体として祀ったのが始まりとのこと。境内は藤の花の名所として知られ、鳥居の上を藤が覆っていました。花の季節は見事なことでしょう。雨も止んできました。
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拝殿
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拝殿の裏に建つ大伴家持の歌碑
「藤波の影なす海の底清み波著く石をも珠とぞ吾が見る」
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NHK講座テキスト参照 「曾良旅日記」を参照しますと、その間、暑さはなはだしく、芭蕉も「気色勝レズ」、つまり気分のすぐれない状態であったようで、「坦籠」へも「行カント欲シテ、往カズ」と云うのが真相であったことがわかります。それを道を尋ねた土地の人に「言いおどされて」断念したかのように虚構化しているところに、「おくのほそ道」の文学空間の特徴がよく出ているといってよいでしょう。俳諧らしく、一ひねりして、おどけてみせたような笑いのスタイルが、そこにうかがえるからです。とのこと。「おくのほそ道」は文学性を高めるために実際とは少し異なる記述が時折りありますね。

芭蕉が参拝した埴生護国八幡宮
奈良時代に宇佐八幡宮(大分県)の御分霊をお迎えしたのに始まり、天平時代には越中の国守大伴家持が国家安寧を祈願した。また、木曾義仲は倶利伽羅山で平維盛(これもり)と決戦するにあたり、戦勝の祈願をこめて著しい霊験があった。以来武将の崇高厚かったとのこと。
社殿は加賀藩の寄進により造営されたもので、富山県を代表する神殿建築とのこと。奥から本殿、釣殿、拝幣殿の3棟。
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鳥居の神額の文字「八幡宮」の八の字は向き合った鳩になっています。八幡宮のお使いと云われる二羽の鳩ですね。Photo_7Photo
石畳になっている参道の先にかつて3段の石段があり、現在の石段と合わせて108段(百八煩悩に因む)の石段だったようです。
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現在の石段
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鳩清水
富山の名水55選の一つ。水源を倶利伽羅山中の幽邃境「鳩清水」の滝に発し、3キロの山側を経てここに至っている。木曾義仲が戦勝祈願の折、白鳩の飛来があり、その案内で源氏勢が、清水を得たと伝える霊水(案内版より)。
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参道を挟んで向かい側に建つ源義仲(木曾義仲)騎馬像
源義仲は源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる
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倶利伽羅峠は富山県小矢部市と石川県津幡町との境界の砺波山にある旧北陸道の峠。木曾義仲が「火牛の計」の奇襲で平維盛を破った古戦場です。現在は、歴史国道「倶利伽羅越え いにしえの街道」として整備されています。芭蕉が歩いた道を歩きました。倶利迦羅不動尊まで、休憩など含めて約1時間半ぐらいだったかしら?
長坂登り口で軽く準備体操してから歩き始めました。
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たるみの茶屋跡
遊行上人も北陸巡錫の節は、倶利伽羅峠を越えたとの説明版と歌碑が建っていました。
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遊行上人歌碑
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時折り見晴らしの良いところに出ます。
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平安時代・鎌倉時代に砺波を詠んだ和歌の歌碑も所々に見られて、倶利伽羅峠は多くの文人墨客が通った歌枕の地ですね。
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峠の茶屋跡
東海道中膝栗毛の作者、十辺舎一九は加越(加賀国と越前・越中国)を旅して、倶利伽羅峠の茶屋で一服した時の印象を著書に誌しているとのことです。
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矢立堂と塔の橋
平家と源氏それぞれの最前線となった場所。矢立堂は平家軍の放った矢が林のように突き立ったことによるとか。
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矢立観音
江戸時代末期、津幡町竹橋と小矢部市石坂の間の道しるべと旅人の安全を祈念して33体の観音仏が安置されたが、明治の廃仏毀釈の際、関わりある人々によって各地に移された。ここ観音仏は埴生地内に移されていたがしばらくして元の場所に戻されたもので、33観音のうち元位置が確かな唯一のものだそうです。
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矢立の標柱
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砂坂登り口
木曾義仲は角に松明をくくりつけた数百頭の牛をここから平家軍に向けて放ったと標柱に書かれていました。
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弘法大師がこの道をお通りなされた時、手に持つ錫杖で地中を刺すと真清水が沸き出したと伝えられている「弘法の水」が道端にありました。
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砺波山(265m附近)からの展望
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猿が馬場
源平合戦のときの、平維盛が布いた本陣の跡。芭蕉塚、芭蕉句碑、猿が堂などがあります。
猿が馬場の名前の由来は、峠を登った馬がたくさん、猿が堂の辺りにつながれていたからだそうです。
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芭蕉塚(芭蕉句碑)
朝日将軍とうたわれた木曾義仲の末路を涙して詠んだ句ですが、越前燧ヶ城跡で詠まれたもので、「おくのほそ道」の句ではありません。
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私の記憶が不確かですが、もう一つの芭蕉句碑も、この猿が馬場にあったのかしら?やはり「義仲の寝覚め山か月かなし」の句です。
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平維盛の本陣跡
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猿が堂
その昔、原というところにかしこい猿がいて、人間の真似をして幼児を熱湯に入れ死なせた。猿は追われ、この土地に住み、旅人などに悪さを重ね殺されました。元の飼い主が弔いのお堂を建たという。
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火牛の像
「火牛の計」は中国の故事にある計略だそうです。義仲の源氏軍は深夜、角に松明をくくりつけた牛、数百頭を先頭に、平家軍を急襲した。 夜襲に驚いた平家軍は大混乱、唯一敵の来ない方へと逃げた先は断崖、、、谷底へと落ちていったそうです。
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「源平合戦慰霊之地」と刻まれた石碑
慰霊塔もありましたが、後でと思っていたら、時間が無くなり傍までいきませんでした。
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宗祇の歌碑
「もる月にあくるや関のとなみ山」
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旧街道の俤が残る道を倶利迦羅不動尊へ向かいました。
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倶利迦羅不動寺 手向神社鳥居
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手向神社 石堂神殿
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本殿
倶利迦羅不動尊は、1300年の昔、インドの高僧善無畏三蔵法師が、国土安泰・万民豊楽の祈願をなされた折に感得された倶利迦羅不動明王を、お姿そのままに彫刻し泰安された御尊像です。倶利迦羅とは、インドのサンスクリット語で、“剣に黒龍の巻きついた不動尊”で、古来より倶利迦羅紋々として入墨にまでされて信仰されている御本尊様です。このようなお姿のお不動様は日本では一尊である。倶利迦羅不動尊パンフレットより
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厄除錫杖
智杖徳杖(ちじょうとくじょう)ともいい、最高の位をもつ錫杖である。錫杖を持ち上げ南無大日大聖不動明王と唱えて三度振ると前途の苦厄を払い身体を守って頂けるとのこと。
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施無畏堂(せむいどう)
施無畏とは、降りかかる災害を払いのけ、恐れや不安をなくすという意味です。
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五重塔
高さ約8メートルの朱色の塔は、全ての諸仏諸菩薩を迎来する塔で、本尊は金剛界大日如来です。塔下は写経室で、信徒の書いた写経や写経石が納められているとのこと。
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拝観後バスに乗って金沢への帰路についたとたん、夕立になりました。歩いた後で良かった!!
金沢から越後湯沢に向かう特急「はくたか」から は、黄金田に沈む日が綺麗でした。
   秋没日 観覧車に影 重なりぬ   蘖
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2013年9月26日 (木)

奥の細道を訪ねて第14回 (2日目) 能生白山神社(新潟県糸魚川市)~荒屋神社(富山県射水市) 

2日目(9月7日)、赤倉温泉の朝、いつものように30分ほどの散策を楽しみました。コスモスが咲いて、ナナカマドの実が赤くなっていました。岡倉天心六角堂と天心公園がある赤倉温泉は、岡倉天心の終焉の地だそうです。が、時間がなくてそこまでは行きませんでした。
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2日目の最初に訪れたのは能生(のう)白山神社(新潟県糸魚川市)。延喜式に記載される奴奈川神社にあたり、本殿は室町時代の特色を示しており、国の重要文化財とのこと。

二の鳥居を入った左手に「越後能生社汐路の名鐘」の石碑に芭蕉の句が刻まれています。芭蕉は能生の玉や五郎兵衛に宿泊し、「汐路の鐘」の句を読みました。「おくのほそ道」には記載されていません。
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「汐路の鐘」とは、義経主従が山奥へ逃れる途中能生浦に滞在し、武運長久を祈って常陸坊の名を刻んだ梵鐘を寄進したといわれる鐘。この鐘には汐が満ちてくると、人が触れずとも、一里四方になり響くという伝説があるとのこと。明応のころ消失したが、その残銅をもって鋳返したそうです。
石碑に刻まれた芭蕉の句
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拝殿
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拝殿の奥には御本殿
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本殿前に湧き出る名水「蛇の口の水」。昔、信州戸隠神社の普請のとき、ここから鉋屑が流れ出たという伝説の水で、四季を通じて水量の変化がないそうです。近所の方が水汲みに来ていました。
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境内の池と末社(秋葉神社)
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境内
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御旅所脇の石段を上ると道路に面して宝物殿が建っています。
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一の鳥居
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一の鳥居前の道を上った所、道路を挟んで宝物殿の反対側、数段の小高くなった雑草の中に建つ「花本大明神碑」。花本大明神とは、芭蕉百五十回忌に田川鳳朗が二条家に請願し、芭蕉に贈られた神号とのことで、芭蕉は神様(俳句の)ですね。この碑は「おくのほそ道」300年を記念して建てたようです。「花本」は芭蕉が敬愛した西行法師の「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌にちなんだものといわれているようです。
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向かい側には民族資料館が建っていました。
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ツアー配布の資料によると、芭蕉は五智国分寺・居多神社へ参拝後、名立による予定だったが、紹介状が届いていないため、先へ進み、能生に夕刻到着し玉屋五郎兵衛へ泊りました。玉屋旅館は現在も営業しています。白山神社から歩いて10分程ですが、移転しているので、芭蕉の時代は此処ではありませんでした。通りがかった車の方が、当時の場所を教えてくさったので、そちらのほうに行ってみると、それらしい雰囲気の建物(家)もありましたが、お住まいの方にお聞きしても?? 分かりませんでした。
現在の旅館 玉屋
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梶屋敷附近の早川を渡るとき、芭蕉は転んで裾を濡らしたので、干して乾かすために旅籠で一休みした。と先生のお話です。その早川を過ぎたあたり、糸魚川 熊野神社に芭蕉句碑がありました。古い社で神額の縁が欠けて、文字も読取れません。
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芭蕉句碑 
元禄7年、芭蕉最後の年の元旦に、江戸で詠まれた句だそうです。
句意は「床の間の蓬莱飾りの前にして、神々しい儀式の行われる伊勢神宮のあたりから初便りを聞きたいもだ」とのこと。
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神社の前の田は、黄金色に稲が稔っていました。
 みのりだの ほとりにふりし やしろかな  ひこばえ
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芭蕉が越えた難所、親不知海岸は青海から砺波を経て市振まで、全長15キロあり、親不知駅を中心として、東側が子不知、西側が親不知ですが、その総称も親不知とのこと。北アルプスが日本海に没する断崖絶壁です。越後に移った平清盛に会いに行く妻が、赤ん坊を波にさらわれた、その悲しみを「親知らず 子はこの浦の 波枕 越後の磯の あわと消えゆく」と詠んだことが地名の由来とか。
国道8号線の親不知入口
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かなり急な坂を下ります
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前方に滝が見えてきました
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こんなところにトンネル(立入禁止)が、北陸本線旧線の親不知トンネルかしら?
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荒波寄せ来る海岸が眼前に飛び込んできました
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岩にあたって砕けて
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後から後から押し寄せて、、、怪獣のようです
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断崖のうえの道路からの展望
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佐渡はあいにく見えません。この後雨が降出しました。親不知を歩いた後で良かった。
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ここに親不知の地形の模型と説明版があり、私たちが海岸まで往復した道が分かりました。説明版によると③は、髭剃岩で、波をよけてしがみついたが、ずり落ちて髭が擦り切れたという岩。この辺り一帯を「弁慶の泣き顔」というそうです。
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模型の一部分と説明
芭蕉も、このような危険な道を歩いたのですね。ほかに道はなかったのです。崖の途中を切り開いて国道が出来たのが明治16年、鉄道が敷かれたのが大正元年だそうです。
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道の駅・親不知で昼食をとり、市振集落の東にある「海道の松」に向かいました。昔の北陸道は、この松から海岸へ降り、旅人は波におびえながら難所を越えて東に、また、西へ上る旅人は、10キロ余りの波間を命がけでかいくぐり、この松にたどりついてホッとしたのでしょう。
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弘法の井戸
市振の村はずれの茶屋に坊さん(弘法大師)がきて、「水がほししい」と言ったところ、茶屋の婆さんは1キロも遠い赤崎のチビタミズ(冷たい清水)を汲んできてあげた。坊さんはこれをあわれんで足元の土をツエで三度突きこの井戸をつくった。ということです。
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本文
『けふは、親しらず・子しらず・犬戻り・駒返しなど云ふ、北国一の難所を越えて、つかれ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間(ひとま)隔てゝ、面(おもて)の方(かた)に、若きをんなの声、二人計(ばか)りときこゆ。年老いたるをのこの声も交りて、物語するをきけば、越後の国、新潟と云ふ処の、遊女成りし。伊勢参宮するとて、此の関まで、をのこの送りて、あすは、古里にかへす文したゝめ、はかなき言伝(ことづて)など、しやる也。白波のよする汀(なぎさ)に、身をはふらかし、あまのこの世を、あさましう下(くだ)りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごふいん)、いかにつたなしと、物云ふを、聞く聞く寝入りて、あした旅だつに、我々にむかひて、「行末(ゆくすゑ)しらぬ、旅路のうさ、あまり覚束なう、悲しく侍れば、見えがくれにも、御跡(おんあと)をしたひ侍らん。衣の上の御情(おんなさけ)に、大慈のめぐみをたれて、結縁(けちえん)せさせ給へ」と、なみだを落す。不便(ふびん)の事には、おもひ侍れども、「我々は、所々にて、とゞまる方(かた)おほし。唯(ただ)、人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、必ずつゝがなかるべし」と、云ひ捨てて出でつゝ、あはれさ、しばらくやまざりけらし。
  一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
曾良にかたれば、書きとゞめ侍る。』

この句碑がある長圓寺
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芭蕉句碑
NHK講座テキストによる句意。自分のような世を捨てた僧形の旅人と、花やかながら罪深い遊女とが、今夜たまたま同じ一軒の宿に泊まり合わせた。折から、庭には萩の花がなまめかしく咲き、空には澄んだ月の光が下界を照らしていて、なんとなく遊女と自分との不思議なめぐり合わせを象徴しているかのようだ。
また、テキストでは、この「市振」の章段での遊女との出会いは、いかにも物語めいた趣向になっており、やはり、前の章段{七夕伝説}などから連想された虚構の出会いであったとみるのが自然だと思われます。これも「おくのほそ道」における一つの幻想空間として設定されたものではないでしょうか。とのこと
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遊女との出会いが実際の体験であったかどうか?分かりませんが、芭蕉は市振の桔梗屋に宿をとり、上記の名句を詠みました。桔梗屋は、脇本陣でしたが、大正の大火で消失してしまい、現在は跡地に標柱と説明板があるのみです。説明版に、良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだとありました。
  市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月 
桔梗屋跡
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市振の関所跡が市振小学校の一角にありました。天然記念物 関所榎が立つ小学校の校庭はかって市振の関所があったところです。
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境一里塚
加賀藩領内における第一号のもので、県内において、当時のままの姿で残されているのはここだけ。一里塚の面積は五間四方(約82㎡)とされ塚には必ず榎を植えたとのことです。
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日本一厳しいといわれた境関所跡
明治2年、関所が廃止されると跡地は小学校となりました。小学校の閉校後に「関の館」が
建てられ、境関所の歴史を物語る各種の資料が展示されています。
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関所の池と「関の館」
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小学校の名残
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北陸本線の第6北陸街道踏切を渡った少し先、富山県新川郡朝日町元屋敷に芭蕉句碑がありました。お寺とか神社の境内ではなく、何もない小さな公園のような場所です。写真が下手で見難いですね。
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碑文の文字が深く刻まれて、とてもはっきりしています。
いよいよ加賀の国だなあ、という感慨が込められており、そこに来る途中の「早稲の田」のイメージと、今眼前に見る「海」のイメージがモンタージュのように合成された一句。(NHK講座テキスト参照) (本文は3日目に)
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延喜式に名を残す、滑川市の櫟原(いちはら)神社。芭蕉句碑がありますが、なぜこの句なのか?不明とのこと。
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元禄4年に詠んだ句です。
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滑川市の徳城寺には有磯塚があります。
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有磯塚は芭蕉の七十回忌に、滑川俳壇を代表する川瀬知十らが句碑の建立を思い立ち、有磯の砂を手でさらえ、荒波かかる自然石を荷い運んで、地元ゆかりのこの秀吟を刻み、古刹徳城禅寺境内に建立した。(説明版より)
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ガラス越なので、手前にある複製の句碑です
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有磯塚の中の句碑の背後にあるのは知十塚(芭蕉句碑を建立した)です。Photo_31
富山市の水橋神社。
拝殿には奉納の絵馬が多い。中でも応真斎松浦守美の描く源義経の海士ケ瀬(あまがせ)の故事が有名である。伝えるところでは、文治年間、義経が兄頼朝に追われ、ひそかに北陸路を経て奥州に逃れようとして水橋の渡にさしかかり河水の深浅、渡しの難易を計りかねて当惑していたところ、海士(あま)があらわれ、義経主従を教導して、無事に渡した。この海士は海神の化身であったという。(説明版抜粋)
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奥の細道の旅で、金沢から小松へ向かう途中で詠まれた句の句碑が建っています。台座の文字は「青桃祠」だそうです。(本文は次回15回目に)Photo_35
放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)
富山県射水市、芭蕉が参拝したかどうか?不明です。芭蕉句碑と大伴家持の歌碑があります。境内裏手は奈呉の浦ですが、海浜は浸食が激しく、砂浜が2キロも沖合につづいていたというかつての面影はないとのことです。
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芭蕉句碑
富山に入ってから、早稲の香や・・・の句碑が多くなりますが、刻まれた文字はそれぞれ違った書き方ですね。説明版に沿うようにしています。Photo_38
荒屋神社、放生津八幡宮と同じ射水市にあります。
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境内
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やはり早稲の香の句碑ですが、前書きが刻まれていました。
「都に遠き名所は世にわすらるゝものぞかし此越之国奈呉は萬葉にも見えたる名所なり翁が書けるおくの細道にも此所にてよめる一句ありそを後のしるしにせむと南呉洲が乞ふによりて筆をとる
 ときに大正三年八月五日 公爵二条基弘
早稲の香や 分け入る右は 有磯海
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放生津八幡宮と荒屋神社は、翌日の予定でしたが、この日に回った方が効率的とのことでした。少し疲れました。宿は高岡マンテンホテル。夕食はそれぞれ自由に、とのことで、友人とホテルの傍のラーメン屋さんへ行きました。


























 

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2013年9月13日 (金)

奥の細道を訪ねて第14回 直江津~高田 (1日目)

芭蕉の足跡を訪ねるツアー、14回目は黒井宿(新潟県 直江津)から倶利伽羅峠(富山県 小矢部)まで、2泊3日(9月6日~8日)の旅でした。1日目は新幹線越後湯沢駅で下車し、バスで直江津の本敬寺に向かいました。
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ここに芭蕉句碑があります。案内板によると、笈日記に掲載されている句で、「おくのほそ道」の句ではありません。「あすならふ」は翌檜(あすなろ)で、葉が檜に似ているので、明日は檜になるという意味でこの名が付けられている。「花が咲き盛っているあたりに、あすは檜になろうと思いつつ立って、年を経てゆく翌檜の姿がさびしい」との句意。季語は花(桜)ですね。
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この辺りは黒井宿のあったところで、大名や重臣が泊まる本陣、脇本陣や旅人が泊まる旅籠、木賃宿などがあり、町並みの中で幕府が決めた一定の場所に造られ、街道の道幅より広く道が造られていました。この広い道幅が黒井宿のただ一つの名残であると、本敬寺の塀に説明版が掲げられていました。
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直江津駅前のホテル センチュリーイカヤで昼食をとりましたが、ホテルを出て左方向、ほんの少し先に林 芙美子著「放浪記」に載る「継続だんご」のお店(三野屋)があります。
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  ~~ 旅人の命つなぎし団子かな 五風 ~~ (お店のチラシより)
自分のお土産に買いました。栗饅頭のような感じで美味しかった!
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放浪記 抜粋 (継続だんご折箱の帯封より記載部分のみ抜粋」)
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森鴎外(本名 鴎外森林太郎)の小説「山椒大夫」で、人買いに騙され、安寿姫と厨子王丸は丹後・由良の山椒大夫に、母親と姥竹は佐渡の農家に売られ、船で別れ別れになる場面が、ここ直江津(直江の浦)でした。ここ関川の河口に安寿姫と厨子王丸の供養塔が建っていました。
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「山椒大夫」は、説経節の「さんせう太夫」に想いを得て書かれたといわれ、直江の浦の情景が、より細かく描かれているとのこと。私は子供頃の絵本の記憶しかなく、いちど確り読んでみたくなりました。900年もの昔(平安時代末期)のことです。
「山椒大夫」文学碑の碑文
 
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芭蕉が宿泊した古川屋跡まで直江津の街を散策しました。(街に掲げられていた地図の一部)
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安寿姫と厨子王丸の供養塔から裏に回ると琴平神社(供養塔は神社の敷地内)。洪水の時に石祠が見つかったことから、航海安全の神様として社殿を建てたそうです。
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鳥居を入って正面に古い芭蕉句碑があったようですが、皆に遅れて見ていませんでした。私が見たのは、社殿の脇の芭蕉句碑(七夕の前夜この直江津で詠んだ句)でした。説明版によると、句意は「明日は七夕である。1年に1度の牽牛、織女の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ」とのこと。Photo_4
ここで先生が見せてくださった地図、琴平神社から親鸞上陸と書かれた間は、芭蕉の時代は通行できなかったようで(説明がよく聞き取れませんでした)ピンクのマーカーで示したように歩いたようです。
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芭蕉は美濃の商人宮部弥三郎の紹介状を持って聴信寺に泊まる予定であったが忌中とのことで断られ、寺を出たが、石井善次郎が芭蕉と知り、戻るように説得、芭蕉は断っていたが雨も降りだしたので、古川屋へ泊まることになった。夜になって句会が開かれ、文月や・・・の句はこの句会で詠まれたとのこと。聴信寺には、翌日挨拶に行っているようです。
聴信寺
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先生が、確証はないけど、ここが古川屋だったのではないか?と案内してくださいました。「古川 ○ 」の表札がありました。
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バスで芭蕉が参拝した居多神社に向かいました。
居多神社は大国主命と奥様の奴奈川姫と二人の間に生まれた建御名方命の三神が御祭神とのこと。
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専修念仏(念仏をすれば救われるという教え)禁止により、越後国府へ配流となった親鸞聖人は居多ヶ浜に上陸し、まず、越後の一の宮である居多神社に参拝しました。以後7年間を越後で生活したとのこと。奥に見えるのは稲荷神社。
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親鸞聖人が居多神社に参拝し、「すゑ遠く 法を守らせ 居多の神 弥陀と衆生の あらん限りは」と詠み念仏が盛んとなりますようにと祈願したところ、一夜にして居多神社境内の葦が片葉になってしまった。という越後七不思議「片葉の葦」が境内に群生していました。
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居多神社に近く、五智国分寺があります。
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親鸞聖人が一時寄寓していたお寺です。
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山門を入ると左手に芭蕉句碑がありました。奥の細道行脚で、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句ですが、本文への記載は有りません。説明版には、「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」とありました。碑文で読取れるのは「芭蕉翁」の文字のみ。
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国分寺の住職が親鸞聖人と比叡山で同学の友であったので、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結び、住まわれたそうです。竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれ、草庵には、鏡ヶ池に姿を映して刻んだ親鸞聖人坐像(等身大の自刻像)が安置されているとのことです。
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国分寺の北にある鏡池
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五智国分寺の句碑と同じ句を刻んだ句碑が金谷山への坂道を登りきる手前、左手の崖の上にありました。芭蕉が宿泊した高田城下の医師細川春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったそうです。
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ここ金谷山は日本のスキー発祥地とのことで、記念碑やレルヒ少佐(日本に初めてスキーを伝えた)の銅像、日本スキー発祥記念館などがありました。
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ここからの眺め
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この反対方向にスキー発祥記念館が見えたのですが撮ってませんでした。
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高田にはもう一つ、正輪寺に芭蕉句碑がありました。
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この句は芭蕉が武士達の花見を通りすがりに見て詠んだものと思われる。「景清」とは平家の侍大将で「悪七兵衛景清」と言われた人並みはずれた剛勇の士のことであり、「悪七兵衛と呼ばれた景清のような強い武士も、花見の席ではただの七兵衛になって花見を楽しんでいるようだ。」という内容の句で、翁草に掲載されている。と説明版にありましたが、どこで詠まれた句なのか?この辺りとは関係なさそうです。
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バスで高田駅前ロータリーを一回り、車窓からから見た高田駅。趣がありますね。
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高田は豪雪地帯。どこの家にも2階に梯子が掛かっています。道路沿いの家々は庇を伸ばして通路を確保しています。雁木通りというのですね。積雪期ではないけど、初めて通りました。
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向かった先は高橋孫左衛門商店(飴店)です。江戸時代より約390年続くあめやで、国の登録有形文化財に指定されており、十辺舎一九も「越後道中記・金の草鞋」の中で粟飴や当時の店の様子を紹介しているとのことです。ゆかりを書いたものがウィンドウに有りましたが、撮った写真が小さすぎました。読めません。熟成飴・翁飴など土産に買いました。
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この日の宿は赤倉温泉・赤倉ホテルでした。

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2013年8月24日 (土)

奥の細道を訪ねて第13回 越後路を通り出雲崎へ(2日目)

二日目の朝、朝食前の散歩に出かけるときに気が付きました。デジカメに充電するのを忘れていました。しかたなくカメラを持たずに出かけました。フロントで散策地図を頂いて岩室神社に行きました。帰る途中同じツアーの方たちと会い、良寛歌碑が近くにあるらしいけど見つからなかったとのこと。私たちは歌碑があることも知りませんでした。

8時15分にホテルを出発。10分足らずで、宝光院に着きました。本尊の大日如来像は一部に廃仏毀釈の際の手斧の痕が残っているとのことです。
宝光院
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本堂の裏手にある樹齢1000年以上の婆杉。
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境内の芭蕉句碑「荒海や佐渡によこたふ天の河」
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西生寺(さいしょうじ)
本堂・客殿・庫裡・弘智堂・宝物堂・金毘羅堂など備え、弘智堂には弘智法印の日本最古(鎌倉時代)の即身仏が安置されています。曾良の日記にこの即身仏のことが記されており、芭蕉も参拝しました。当時は西生寺東方の養智院に安置されていたようです。

西生寺宝物堂
・等身大の、弘智法印即身仏「身替わりの木像」と御遺品
・即身仏の学術調査が行われた時に撮影されたレントゲン写真
・槍奴の首級(豊臣秀吉の時代、「死んでいるのに座っているのはキツネかタヌキが化けているに違いない」と槍で即身仏を突いた者がおり、その者は、後に真の仏を突いてしまったと自害した。その者の遺言により「懺悔の首」として長く即身仏のそばにおかれた、その頭蓋)
・良寛の長歌と書、加藤清正の書翰、等々多数展示されています。
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弘智法印霊堂
弘智法印即身仏が安置されています。槍で突かれたあと、少し前屈みになられたとのこと。
住職様がお留守なので、長老様のお話の後、拝観させて頂き、そのお姿に感動し、胸が熱くなりました。
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御遺告です。(解説版の一部抜粋)
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弘智堂を向いて建つ弘智法印立像。修行の御姿で、高さは5.5メートルもあるとのこと。
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足腰が非常に丈夫な方だったそうで、その足元に健脚祈願の水掛草鞋がありました。
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芭蕉参詣の碑として、「文月やからさけおがむのずみ山」の句碑がありました。この句をネットで検索したのですが、「芭蕉全句鑑賞索引」の中に有りませんでしたもしかして曾良の...? ) 。もちろん、「おくのほそ道」で詠んだ句ではありません。
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親鸞上人ゆかりの銀杏(親鸞上人の御杖木)
樹齢800年。親鸞上人が西生寺を訪れた際に、信者が差出した杖がわりの銀杏の枝を、別れを惜しむ信者の為に「吾れの身替わりに」と地中に突きさされたものが根付き、大銀杏になったと伝えられている。ちなみに雄木なので実はならないそうです。
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本堂(阿弥陀堂)
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駐車場の先に展望台があり、佐渡ヶ島を見ることが出来るとのことですが、残念。見えません。
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日蓮聖人の遺跡
佐渡へ赴く日蓮上人が船待ちをしたという祖師堂近くに湧く井戸水(祖師堂へは行きませんでした)。
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日蓮聖人硯水の霊井(長岡市寺泊町)
弟子の宮本常忍に宛てた「寺泊御書」を書いた時の筆を染めた硯水がこの井戸の水であったとのこと。井戸は今も涸れることなく、この御堂の中に保存されています。
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佐渡に向かって獅子吼(ししく)する日蓮聖人の銅像。獅子吼(仏の説法。獅子がほえて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道を恐れ従わせるところからいう。)
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なぜか芭蕉句碑も建っていますが、隅っこの木の陰で、道路の方の向いているので、道路に出ないとよく見えません。これは句碑の裏側です。
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道路から撮影。この句は二見浦の夫婦岩を描いた絵の画賛で、句意は、岩に砕ける潮の花の絵柄はそのまま二見が浦の爛漫の春の景色だということを疑ってはならない。ということだそうです。Photo_3
寺泊で昼食&買物の後は良寛の生誕地(橘屋跡)へ向かいました。
説明版によると、良寛は出雲崎町名主、山本以南の長男として生まれ、元の屋敷は現在地の約二倍の広さがあり、ここは幕府のお触れを掲げた御高札場だったとのこと。背後は日本海。
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良寛堂 
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堂内には良寛持仏の石地蔵をはめ込んだ石塔を安置し、良寛の歌(いにしへにかはらぬものはありそみとむかいひにみゆる佐渡のしまなり)が刻まれていました。ありそみ は富山湾の有磯海でしょうか?
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良寛堂の裏、日本海に面した良寛像です。
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このあとは出雲崎宿(妻入りの街)の散策です。
芭蕉は出雲崎の旅人宿大崎屋に一泊しました。その大崎屋は今は民家になっており何もありませんが、以前は説明版があったようで、「ここに間違いない」と先生が案内してくださいました。芭蕉園の説明版には、出雲崎に着いた夜、海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた芭蕉は、天下の名吟「荒海や佐渡によこたふ天河」の霊感を得たのである。と記されています。
大崎屋跡
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歩いてすぐ先にある芭蕉園。芭蕉像、天河句碑、東屋などがあります。
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天河句碑(芭蕉の俳文「銀河の序」を刻んだ石碑)
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妙福寺
俳諧伝灯塚があります。小高いところで、石段は何段あったのかしら?
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俳諧伝灯塚
芭蕉と芭門二世の東華坊(支考)と三世の蘆元坊がこの地で詠んだ句が刻まれています。
  五月雨の夕日や見せて出雲崎 東華坊
  荒海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉翁
  雲に波の花やさそうて出雲崎 蘆元坊
新旧二基並んで建っています。大きい方が新しく、大正年間に建てたものだそうです。
真中が芭蕉の句
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山門からの眺め
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厳しい残暑の中、皆、汗を拭き拭き歩きました。途中、妻入り会館で一休み。お話を聞きながら無料サービスの麦茶を頂きました。美味しかった。妻入りとは、切り妻様式の屋根で、建物の短辺側あるいは大棟と直角面に玄関がある三角屋根の住宅のことだそうです。
妻入り会館
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妻入りの街を歩くと所々に「出雲崎よもやま話」が掲げられています。出雲崎代官所の移転についてのお話、廻船問屋 熊木屋跡、餌にまつわる話等々、史実や伝説で、興味はあるけど読んでいては仲間とはぐれてしまいます。カメラに収めました。その他、「御用小路(金銀小路)」「良寛剃髪の寺」「堀部安兵衛の住居跡」「代官所跡」等があり、佐渡からの金銀荷揚げ港として栄えた歴史を感じる街でした。
獄門跡
処刑人の霊を慰めるためのお地蔵様と供養塔があります。良寛さんは名主見習いの時、首切りの立会が嫌で出家をしたと言われているとのことです。
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  石熱る 獄門跡の 秋暑し   蘖

暑いけど、バスが待っている場所までもう少し頑張って歩かないと...
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道端に良寛さんの言葉の碑がありました。
錫(しゃく)を振って 親故に別れ 手を挙げて 城闉(じょういん)に謝す。
納衣(のうい) 聊か破れを補ひ 一鉢 知る 幾春ぞ。
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バスで10分足らず、椎谷観音堂の山門です。観音堂まで石段330段との看板がありました。山門前の芭蕉句碑が目当てなので、お参りはしません。山門までの石段も上る元気なし。
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芭蕉句碑「草臥れて宿かるころや藤の花」
おくのほそ道の行脚に出る前年、大和行脚での吟。
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出雲崎から柏崎に着いた芭蕉は、象潟で会った宮部弥三郎の紹介状を持って、天野弥惣兵衛方に一夜の宿を請うたが、にべもなく断られ、更に約4里(16km)もある鉢崎(はっさき)まで雨の中を歩き、たわら屋に泊まりました。天屋は断った後、2度も宿の使いを走らせ、引き止めたが、芭蕉は戻りませんでした。
天屋跡
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天屋に断られた芭蕉が一気に歩いた旧街道(北国街道米山三里)のなごりのある道を歩きました。下って登って、歩き難い道でしたが見晴らしは良かった。途中に無人駅のJR青梅川駅がありました(一番下の写真)。
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蓮光院(鉢崎はっさき地蔵尊)
江戸時代中期、この地から2km西の海岸に大小数十体の石像地蔵尊が祀られていた。北国街道が海沿いを通り、冬の高波には命がけで往来するというところだった。その通行安全を願い沢山の地蔵尊が祀られていたが、明治29年、信越本線敷設の折、この地蔵尊が法線にかかるに及んで、岩に刻まれた御本尊の移設は出来なかった。やむなくダイナマイトで爆破したところ、御本尊は粉々に飛び散り海に沈んだ。その直後から工事中に事故が多発し、工事は中断した。仏罰なりと、散逸した仏体を拾い集め、新たにお堂を建てて安置したところ、工事は順調に進み始めた。とのことです。
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鉢崎関所跡
越後頸城地方の三関(関川・鉢崎・市振)として重要な役割を果たしていた。最も取締りが厳しかったのは、女子と鉄砲に対してであった(出女入鉄砲)。これは各藩主の妻室を江戸に住まわせ、人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒したためであり、また、江戸へ鉄砲を持って入ることが治安上危険と考えたためである。当時の覚書によると、木戸が開くのは午前6時、閉まるのは午後6時、夜間の通行は一切禁止であったが、飛脚などの通るときは委細を改めて(理由を聞いて)通行を許したとのことです。
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たわら屋跡
天屋に泊まらなかった芭蕉が辿り着いた場所です。代々庄屋で、宿屋を業としていた。椎谷(現・柏崎市)に馬市があり、たわら屋は馬宿でもあったそうです。
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帰りはまた長岡から新幹線でした。この日はほんとに暑く、汗をかいては水分、水分を取っては汗となり、私にしては、山歩き以外で、こんなに汗をかいたことは無かったような気がして...長岡駅で1時間ほどの待ち時間があり、皆さんは何か食べに行ったり、買物に行ったりしましたが、私は疲れてしまって、食べ物見ると気持ち悪くなりそうで、駅構内の良寛さんの傍で荷物番をしていました。友人たちは、中華のあんかけ麺を食べてきたそうで、行かなくて良かったと思いました。

長岡駅 良寛さんの像
すみれを手に持つ良寛像は、托鉢の途中、野に咲くすみれを摘むのに夢中になって、大切な鉢の子(応量器 おうりょうき)を忘れたほほえましい逸話にもとづいています。(傍らの解説版より)
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