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2014年1月の投稿

2014年1月25日 (土)

カタクリの花

春には未だ間がありますが、きょうはワードでカタクリの花を描きました。描き方が分からないので、ネットで検索した写真を見ながら曲線ばかりを使ってやっと仕上げました。斑入りの葉に苦労し、また、花弁はもっと丸みをもって反り返ったほうが良かっったかと思います。時間があれば、後日、背景も入れたいと思います
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俳句では「かたかご」ともいいます。
  片栗の一つの花の花盛り        高野 素十
  かたかごの花や越後にひとり客    森 澄雄
3.11震災の1年後の5月1日に陸中宮古で撮ったカタクリの花です。
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2014年1月12日 (日)

奥の細道を訪ねて第16回 (3日目)長浜~大垣

11月28日(3日目) ホテルの窓から、目の前に長浜城と琵琶湖が見えました。
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朝食前に散歩しようと玄関まで降りましたが、雨が降っており、風も強く、暫くロビーで新聞など読みながら様子を見ていたところ、雨が止んだので、長浜城まで行きました。
長浜城は江戸時代前期に廃城となり、その城跡に明治42年に作られた豊公園。長浜城主だった豊臣秀吉に因んで名付けられたとのことです。
紅葉が綺麗でした。
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昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」が復元されました。内部は歴史博物館として公開されています。
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長浜城址
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本丸跡
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雪吊の先端に縄の瓢箪が掲げられ、職人技ですね。
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琵琶湖の畔の道をホテルに戻りましたが、風の冷たいこと!寒いこと!!

この日 最初に訪れた慶雲館は、明治時代に長浜の豪商・浅見又蔵が私財を投じ、明治天皇の行在所として建てた迎賓館です。広大な庭園は国の名勝に指定され、現在は公共の施設として、そのほか観光施設として一般公開されています。
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ここに、日本最大の句碑がありました。見上げるような巨石に「蓬莱にきかはや伊勢の初たより はせを」と刻まれた芭蕉句碑です。元日に床の間の蓬莱飾を前にして、神々しい儀式の営まれる伊勢神宮あたりから、初便りを聞きたいものだ、との句意。
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高さ5メートルという大灯籠もありました。
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長浜八幡宮
源義家公が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮より御分霊を迎えて鎮座された。兵火により社殿のほとんどを焼失したものの、長浜城主となった羽柴(豊臣)秀吉により再興された、とのこと。
参道
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参道から摂社 天満宮への入口にある芭蕉句碑
「をりをりに伊吹を見てや冬籠」
墨を塗って拓本を採ろうとして失敗されたために、黒くなってしまったようです。
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摂社 天満宮
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拝殿
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幣殿
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本殿
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摂社 高良神社
御祭神の竹内宿禰(たけのうちのすくね)は長寿の神様で、健康でボケる事なく活躍された故事により、ボケ封じの大石がありました。お願いすれば良かった、、、
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私の子年と、夫の丑年、可愛い「起き上がり守り」を買いました。
七転び八起き.....「起き上がりこぼし」になっているのです。
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織田信長・徳川家康連合軍(約3万の兵)と浅井長政・朝倉影健連合軍(1万8千の兵)が激闘を繰り広げた姉川古戦場
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戦いは信長の勝利に終わりました。この姉川一帯は血に染まったといわれ、供養塔が建っていました。
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供養塔の前に建つ木導の句碑「春風や麦の中行く水の音」
木導は禄高150石の彦根藩士 晩年に芭蕉門人となり、「風俗文選犬注解」の作者列伝に「蕉門の英才なり 師翁奇異の逸物と称す」と記され、また 芭蕉はこの句を「木導が春風 景曲第一の句也 後代手本たるべし」と称賛し 褒美に「かげろういさむ花の糸口」という脇をつけたした、と説明版に記されていました。また、最初は「姉川や麦の中行く水の音」であったところ、芭蕉が「春風や」に直したとの話もあるとか。
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滋賀県米原市にある観音寺は豊臣秀吉が石田三成を見出したことで知られる古刹です。石田町は三成が生まれた町です。
総門
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総門を入った右手、参道の入り口に芭蕉句碑が建っています。
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「其のままに(よ)月もたのまじ伊吹山」
伊吹山は月が出ていなくても(月を添えなくても)其のままの姿で十分に美しい。との句意
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総門前の道路から見た伊吹山
雲がかかってしまい残念。
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総門を入って左手に池の畔を進むと「石田三成水汲みの井戸」があります。
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秀吉が鷹狩でこの寺に立寄った際に、小僧をしていた三成が、秀吉に献じたお茶の水を汲んだとされる井戸です。三成が献じたお茶は、最初はぬるめ、2杯目は最初より若干熱め、3杯目は熱いお茶を少量という心遣いで、これを「三椀の才」といい、秀吉に見出されたことで有名です。
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石段と本堂
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薬師堂
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境内
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結びの地、大垣で私たちが最初に訪れた正覚寺。入口に「史跡 芭蕉木因遺跡」と刻まれた石柱が建っていました。木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだため、芭蕉との親交が深くかったとのこと。(しかし、晩年に芭蕉がめざした「軽み」との考えの相違から、芭蕉と木因の親交は遠くなったとか...)
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芭蕉木因遺跡
元禄7年(おくのほそ道行脚5年後)芭蕉が大阪にて病死すると、大垣の俳人如行が中心となり、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑(尾花塚)を建てました。これは最古の「翁塚」とのこと。木因碑は木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲んで建てたそうです。「芭蕉翁」追悼碑の脇に建つ句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」は明治になって建てたもの。翁塚周辺には大垣の俳人の句碑が並んでいました。
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隣接する愛宕神社から見た正覚寺本堂
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愛宕神社 実は、正覚寺で写真を撮っていて皆に遅れ、なぜ、愛宕神社に入ったのか、聞きのがして分かりません。
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大垣城の外堀であった水門川に沿って、奥の細道の全行程およそ2,400kmを2.2kmに縮め、全部で22基の句碑をめぐる「ミニ奥の細道」はこの愛宕神社のあたりから始まりますが、私たちはバスで八幡神社まで移動し、そこから歩きました。

総鎮守として人々の崇敬をあつめている大垣 八幡神社
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境内に建つ芭蕉句碑(冬ごもり塚)
「折々に伊吹をみては冬ごもり」 元禄4年(奥の細道行脚の2年後)京都から江戸への旅で大垣に立寄り藩主岡田治右ヱ門邸へ泊った時に詠んだ句。
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句碑の前に「大垣の湧水」がありました。大垣は昔から多くの家庭に自噴井戸があり、まちのいたるところに水路があり、「水の都」と呼ばれたそうです。ライオンズクラブ結成30周年を迎えるに当たり、市民の憩いの場となるようにと掘削した自噴井戸です。
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本殿(左)と出雲社(右)
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出雲社前の銀杏落葉は目が覚める鮮やかさです。
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大福稲毛神社の鳥居
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大垣天満宮
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八幡神社前の八幡大橋と芭蕉句碑
 ここから歩いて句碑めぐりをしました。
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円通寺の前に建つ句碑
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円通寺 大垣藩主・戸田家の菩提寺です
山門
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思わず拾ってしまいました。参道の色鮮やかな紅葉です。
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本堂
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芭蕉句碑
奥の細道の旅で芭蕉は大垣藩家老 戸田権太夫(俳号 如水)の下屋敷を訪れ、弟子の路通と共に忍びにて初めて対顔し、俳諧を楽しみました。 大垣市文化財保護協会編「西美濃の芭蕉句碑めぐりーガイドブックー」より
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円通寺の前を流れる水門川(興文橋より )
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興文橋を渡り、大垣公園へ、ここで30分ほど休憩しました。
大垣城と初代藩主 戸田氏鉄公の像
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天気が良いので、100円の入場券を買い、大垣城の天守に登りました。内部は博物館です。
周りに雲が有りましたが、伊吹山の全容を見ることが出来ました。
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川沿いの句碑めぐりを再開
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清水橋と水門川
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ここで他のツアーの方々と重なり案内板の撮影はできませんでした。
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結びの地に近く3つの団体が重なり、やっとのことで撮った碑文。
皆の後を追いかける途中、他の団体に向かって行く仲間の方に気が付き呼び戻しました。
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大垣の章段 本文
『露通も、このみなと迄、出でむかひて、みのゝ国へと伴(ともな)ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曾良も、伊勢より来(きた)り合ひ、越人(えつじん)も、馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)其の他、したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且つよろこび、且ついたはる。旅のものうさも、いまだやまざるに長月六日になれば、伊勢の迁宮(せんぐう)をがまんと、又ふねに乗りて、
  蛤のふたみに別れ行く秋ぞ  』

路通は敦賀まで芭蕉を出迎えました。最初に奥の細道に同行する事になっていたのは路通でしたが、門人たちの信用が薄かったので、曾良が同行することになったそうです。曾良は芭蕉の旅の最後を路通に譲ったのではないか?とのことです。
芭蕉は山中温泉で曾良と別れ、金沢からは北支が同行し、松岡天龍寺を訪れたあと北支と別れ、一人で福井に入ります。福井からは等栽が敦賀まで同行しました。敦賀に出迎えた路通と共に芭蕉は大垣に入りました。


結びの地 到着です。
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船問屋 谷木因宅前に建つ「奥の細道むすびの地」の石柱。背後に芭蕉と木因の像。
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芭蕉(左)と木因(右)の像
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蛤塚(芭蕉句碑 右 手前)と木因白桜塚(木因句碑 左 後
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木因俳句道標 
木因が建てた道しるべで 「南いせ くわなへ十り ざいがうみち」と句が刻まれています。
くわなへ⇒
桑名へ、季語の桑苗を掛けたものです。
本物はむすびの地記念館に展示されています。
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水門川に架かる高橋の欄干にも芭蕉の句と木因の句が埋め込まれていました。
「来てミれは獅子ニ牡丹の住居哉 」  芭蕉
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「矢張召せ此処ハ伊吹の吹すかし 」 木因
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船町港跡 芭蕉はここから伊勢へと旅立ちました。赤い橋は住吉橋。
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住吉橋の袂に建つ連句塚
芭蕉の伊勢への旅立に、木因・如行らも船に乗り途中まで見送ったのですね。伊勢に旅立つ日に詠まれた送別の連句を杉風宛てに送った書簡だそうです。
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住吉橋の反対側の袂には如行の句碑(如行露塚)が建っています。
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最後に、奥の細道 むすびの地記念館を見学しました。観光・交流館、先賢館、芭蕉館、等があり、芭蕉館を興味深く見学しました。
その一つ且つよろこび、且ついたはる』
如行の日記によれば、芭蕉は、大垣到着後しばらく病み臥せっていた。人々は芭蕉との再会を「よろこび」一方で、病みつかれた様子に「なげきて」である。など、奥の細道のことが、細かな解説と共に、とても分かりやすく、もっとじっくり見学したい場所でした。

帰路 バスで名古屋へ向かう途中、夕焼けが綺麗でした。バスの席が反対側だったので、窓際にいらした 青森から参加された方にお願いして撮って頂きました。有難う!
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名古屋発18時24分ひかりで無事に帰宅しました。
軽い気持ちで参加した奥の細道ツアーですが、回を重ねるごとに奥行きが深まったように思います。歴史講師U先生、S先生のおかげです。有難うございました。見過ごした場所、聞き逃した事、沢山ありました。もう一度訪ねたい場所もあり、機会があればと思います。












































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2014年1月 6日 (月)

奥の細道を訪ねて第16回 (2日目)敦賀~長浜

11月27日、2日目の朝です。昨夜は分かりませんでしたが、7階の窓からは港が見えました。
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朝食が早い時間にとれたので、今回は朝食後に散歩しました。敦賀駅は目の前です。交差点の角にスコップが置かれていました。雪深い街なのですね。
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8時15分出発、バスで10分、金前寺に到着です。等栽と敦賀に入った芭蕉は、出雲屋に泊まり、夕食後、気比神宮に参拝し、翌日、天屋玄流らの案内で金前寺を訪れました。私たちの見学順序は芭蕉の行程とは前後します。芭蕉はここで、延元の戦い、陣鐘の物語(南北朝時代の沈鐘伝説)を聞き「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」の句を詠みました。その句碑が鐘塚ですが、「おくのほそ道」には記載されていません。芭蕉の木像と、鐘塚帖という句簿もあったが、昭和20年7月の戦火により消失したそうです。高浜虚子、星野立子が敦賀を訪れた折、この鐘塚を訪い、虚子が「句碑を訪うおりから月もなかりけり」の一句を詠んだとのこと。
金前寺
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芭蕉翁鐘塚
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真蹟を刻んだと伝えられているとのことですが、石が重なっているようで、読み取れない部分があります。「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」
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金前寺の先が新田義貞と足利軍が戦った古戦場で、金ヶ崎城址と金崎宮があります。
金ヶ崎城址
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坂の途中から見た敦賀市街と野坂山
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城址から見た敦賀湾
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金崎宮
金ヶ崎城址の中腹にあり、敦賀湾を見晴らす高台にあり、紅葉がきれいでした。
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地元の方に「けいさん」の愛称で親しまれている気比神宮。越前の一ノ宮で北陸道の総鎮守。
『おくのほそ道』本文
『十四日の夕暮、つるがの津に、宿をもとむ。
其の夜、月、殊に晴れたり。「あすの夜も、かくあるべきにや」といへば、「越路(こじぢ)のならひ、猶明夜の陰晴(いんせい)、はかり難し」と、あるじに酒すゝめられて、けひの明神に夜参(やさん)す。仲哀(ちゅうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭神さびて、松の木間(このま)に月のもり入りたる、おまへの白砂、霜を敷けるがごとし。「往神(そのかみ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みずから葦を刈り、土石を荷ひ、泥淳(でいてい)をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例、今にたえず、神前に真砂を荷ひ給う。これを、遊行の砂持ちと申し侍る」と、亭主のかたりける。
  月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがわず、雨降る。
  名月や北国日和定めなき   』  

明日の十五夜は晴れるかどうか分からない。ならば、月の綺麗な今宵にと、芭蕉が夜参した気比神宮
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大鳥居(旧国宝・現在は国の重要文化財)は寛永年間に旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居で、天下無双の大華表と呼称され、各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行われてきたとのこと。
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大鳥居前の大通りを隔てた向かい側に、「遊行の砂持ち神事」の像が見えます。
遊行二世の上人が男と土石を担ぎ、もう一人の男が土石を掘っています。
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大鳥居を入った左手には猿田彦神社
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正面の参道と社務所
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手水屋から中鳥居
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中鳥居に向い合って建つ芭蕉像と句碑
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芭蕉像 台座には「月清し遊行の持てる砂の上」の句が刻まれています。
Photo_8芭蕉句碑と芭蕉翁杖跡碑
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句碑 芭蕉露塚「気比のみや  なみたしくや遊行のもてる砂の露 はせをPhoto_11芭蕉翁杖跡碑には
芭蕉翁露塚
  なみたしくや遊行のもてる砂の露
芭蕉翁銅像
  月清し遊行のもてる砂の上
と刻まれていました。

芭蕉翁月五句の碑 芭蕉は敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地を訪れ、月の名句を詠みました。その代表的な5句が刻まれています。
「国々の 八景更に 気比の月」
「月清し 遊行のもてる 砂の上」
「ふるき名の 角鹿(つぬが)や恋し 秋の月」
「月いつく 鐘は沈る 海の底」
「名月や 北国日和 定めなき」
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この他にも敦賀では次のような月の句を詠みました
「中山や越路も月はまた命」 
  (越こしの中山=今庄~敦賀の中間、木の芽峠のある大山での作)
「月のみか雨に相撲もなかりけり」 (気比の浜)
「衣着て小貝拾はん種の月」 (種の浜)

中鳥居から拝殿
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拝殿
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拝殿に向かって右脇の柵から見ました。これは御本殿ではなく、四社の宮の一つだと思います。御本殿は左脇からだと拝観できることを 旅の後に調べて分かりました。
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境内の式内摂社 ・角鹿(つぬが)神社 「敦賀」の地名発祥の神社だそうです。
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摂末社は15もあるようです。

市民文化センター前の芭蕉翁月塚
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「諸国を巡り、国々の八景を見尽くして、さらにいま、名月に照らされた気比の海の佳景に接することのできた仕合わせよ。」 句意 田中空音「芭蕉全句鑑賞」より
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私たちも気比の海に向かいました。
日本三大松原の一つ、気比の松原です。聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した その時、敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した。そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し、あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた。敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去った。という伝説に因んで一夜の松原とも呼ばれるようです。
広々として気持ちの良い浜でした。ここの月夜はさぞ美しかろうと想像しました。
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『十四日の夕暮れ、つるがの津に、宿をもとむ』と記載されている出雲屋の跡。「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱が立っていました。出雲屋の主人弥一郎が芭蕉に「お砂持ち」の故事を伝え、中秋の名月の前夜、月明かりの中を気比神宮に案内しました。
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芭蕉は出雲屋に笠と杖を残していきました。笠は失われたが、『蕉翁宿』の宿額も、芭蕉が残した杖とともに今も伝えられているとのことです。Photo_23
このすぐ先の角を曲がると、天屋玄流旧居跡です。現在はホテルの駐車場です。
敦賀滞在の三日目、『おくのほそ道』で最後の歌枕の地、種(いろ)の浜へ芭蕉を案内したのが天屋の室五郎右衛門です。五郎右衛門は玄流の他に点屋水魚とも号し、当時の敦賀の俳壇では中心的な存在だったようです。
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常宮の海岸べりにある常宮神社。気比神宮の摂社として創建されたと伝えられ、現在は安産の神様として、土地の人々に崇敬されているとのこと。鳥居の前に芭蕉句碑 「月清し遊行のもてる砂の上」がありましたが、刻まれた文字は 読み取れませんでした(三枚目の写真)。
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鳥居と神門
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本殿 神門と本殿の造りがそっくりで 写真整理に戸惑いました。
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境内の東殿宮
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西殿宮
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平殿宮(左)&総社宮(右)
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末社
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紅葉が綺麗でした。鳥居を入った所にあった立札に「落葉の採取を堅く禁ずる」とありました。
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神社にある朝鮮鐘は新羅鐘の数少ない遺品の一つとして国宝に指定されており、収納庫に収められていました。文禄の役で加藤清正が持ち帰ったものを、豊臣秀吉が神功皇后の三韓征伐に因んで 大谷吉継を使者としてここに奉納したと伝えられているが、倭冦によってもたらされたとの説もあるとのこと。混んでいるので後でと思っていたら もう扉が閉まっていました。
新羅鐘堂
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説明版より
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花梨&ますほ貝を ご自由にどうぞと並んでいました。花梨は良い香りがするので、玄関にと1つ。ますほ貝も拾えるかどうか分からないと思い少し頂きました。
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3つ並んでいる貝の真ん中の一番小さい貝と、2つ並んでいる貝の左のほうがますほ貝だと思います。
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この後、本隆寺を見学し、色ヶ浜(種(いろ)の浜)でますほの小貝を拾いました。
色ヶ浜
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『おくのほそ道』本文
『十六日、空晴れてれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に、舟を走(は)す。海上七里あり。天屋何某(てんやなにがし)と云ふもの、破籠(わりご)、小竹筒(ささえ)など、こまやかに、したゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風、時の間に、吹き着きぬ。浜は、わづかなる蜑(あま)の小家にて、侘しき法華寺有り。爰(ここ)に、ちやをのみ、酒をあたゝめて、夕暮れのさびしさ、感に堪へたり。
  さびしさやすまにかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵
其のあらまし、等栽に筆をとらせて、寺に残す。』

色ヶ浜は西行法師がますほの小貝の歌を詠んだ地で、芭蕉にとってはぜひとも訪れたい場所でした。「ますほ」は「まそほ」と同じで、意味は赤い色です。桜貝のような、ベニガイとのことだそうです。この地方でしか採れないようです。私も楽しみにしていた事の一つです。ますほの小貝は常宮神社で見ているので すぐに分かりました。
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赤ちゃんの爪のような、ほんとに小さくて可愛い貝でした。
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侘しき法華寺と芭蕉が記載した寺は本隆寺のことで、芭蕉はこの寺に宿泊しました。当初は禅宗の寺院であったが、日隆上人がこの地を訪れ尽力を尽くしたことで、村人が心を打たれ、日蓮宗に改宗し寺号を本隆寺に改めたと伝えられているそうです。
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境内に芭蕉句碑が2基、右奥の句碑には、傍の石柱に「芭蕉翁杖跡 萩塚」と刻まれています。どちらもこの地で詠まれたものですが、『おくのほそ道』には記載されていません。
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「衣着て小貝拾わんいろの月」
衣着て、は西行にならって墨染めの衣をまとい、という意味のようです
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「小萩ちれますほの小貝小盃」
小盃の中にますほの小貝を拾い集めたようです。芭蕉は小さなますほ貝を、大事に持ち帰り大垣の門人たちへの土産にしたとのことです。
『其のあらまし、等栽に筆をとらせて、寺に残す。』等栽がその日の様子を記した書幅が、本降寺に所蔵されています。
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日隆上人の祈祷石を囲んで建てられた本隆寺の開山堂。
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開山堂の寂塚 (西行の歌碑と芭蕉句碑)
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「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」
この夕暮れの寂しさを「源氏物語」の須磨の浦の寂しさ以上と思ったのでしょう。
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西行歌碑
「潮染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」
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敦賀市街の西、大原山麓にある西福寺。浄土宗では北陸きっての名刹で、1400坪の書院庭園は、四季を通じて閑寂の趣が深く、国の指定名勝になっているとのこと。芭蕉が訪れたかどうかは不明。
総門
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三門
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曾良文学碑 山門前の右手奥にあります。
芭蕉の弟子、許六が旅姿の芭蕉と曾良を描いた「芭蕉行脚図」と曾良が書いた「曾良随行日記」の原本の一節(曾良が元禄2年8月10日、西福寺に立寄ったくだり)が刻まれています。
Pb273676
御影堂 工事中でした
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阿弥陀堂
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大玄関
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書院庭園
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樹齢600年のスタジイ
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福井と滋賀の県境の峠にある民芸茶屋「とろろそば孫兵衛」で遅い昼食をとりました。
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店は西村家が経営しており、店の前に「芭蕉翁と西村家」という石碑が建っており、西村家は遠く村上源氏の出、この峠を開拓 ここ北陸街道の要所に問屋を営んだ旧家であり芭蕉とのゆかりが深く、おくのほそ道素龍本(国重文)を秘蔵していることなどが刻まれていまし
た。
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とろろそばを美味しく頂いたあと、御当主西村さんから、詳しい説明を頂き、国の重要文化財である「素龍清書本(西村本)」を拝観させていただきました。撮影は出来ませんが、複製品の撮影は自由でした。素龍清書本は『おくのほそ道』の原本の一つで、芭蕉が能書家である弟子の素龍に清書させたものです。
「月日は百代の過客にして 行きかふ年も又旅人也・・・・」の序章の部分
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大垣の章段の最後「・・・・・蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」
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題簽(だいせん=表題)のみが芭蕉自筆とのことです。
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この原本をなぜ西村家が所有しているのかを伝来図にして説明してくださいました。
芭蕉の兄に預けられた後、芭蕉の遺言により 弟子の去来に、去来の没後、 母方の久米升顕へ、升顕の娘が小浜の吹田几遊に嫁ぐ時に持参(引出物として)、敦賀の俳人琴路に渡り、さらにその親戚の西村家に伝わったとのことです。
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『おくのほそ道』原本の説明もして頂きました。
中尾本は平成8年に発見された芭蕉自筆本で七十数か所に及ぶ訂正の跡をとどめた草稿本です。門人 野坡のもとに伝来し、その後の行方の分からなかった野坡本のこと。現在中尾氏が所有しているので中尾本といいます。(野坡本=中尾本)
曾良本は、野坡本を筆写したものに芭蕉自身が改めて推敲し朱や墨で補訂を加えたもので、素龍が清書する際の台本となったもの。曾良随行日記と一緒に発見されました。
素龍清書本には柿衛(かきもり)本と西村本の2つがあるとのこと。
去来本は素龍清書原本を去来自身が筆写しとものとされているが、去来の筆跡かどうか分からないとのこと。
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説明のあと、道路の向側に建つ西村家の庭を案内してくださいました。
西村家(バスの窓越しに撮影)
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趣のある素敵な庭です。(デジカメの電池切れで携帯で撮りました)
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小高くなった場所に芭蕉句碑 「松風の落葉か水の音すゝし」 があったのですが、携帯のカメラに慣れてなくて撮れません。
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滋賀県長浜市の小谷城址(おだにじょうし)に立寄った後、良畴寺(りょうちゅうじ) に行きました。住職さんのお話を伺い、芭蕉句碑を見学し、琵琶湖大仏に登りました。もう辺りは暗くなって、携帯では何も撮れません。
良畴寺(りょうちゅうじ)の句碑は「四方より花咲き入れて鳰の海」。
鳰の海は琵琶湖のこと。門人の浜田珍夕の草庵を訪れての作とのこと。
また、干瓢の実の中に入った芭蕉翁木像がありました。懐中電灯を当ててもらい必死で撮った1枚
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この日の宿は長浜ロイヤルホテル。今回はツアーの最終回ということで、夕食会場にて卒業式?が行われました。参加者27名中15名が卒業(完歩)しました。
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毎回持って行った記録帳
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認定証
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記念品の電波時計と記念バッジ
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でも、まだ旅は終わりません。明日3日目がいよいよ大垣 、結びの地です。




















































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