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2013年12月14日 (土)

奥の細道を訪ねて第16回 (1日目)越前 芳春寺~湯尾峠~木の芽峠~敦賀

11月26日 奥の細道を尋ねるツアー全16回の最終回の朝です。今回は東京駅から新幹線で米原へ向かいました。良い天気ですが、西日本は?降られるかも?
新幹線の窓からは青空と白い富士山が大きく見えました。富士山はいつ見てもいいね!
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米原からはバスで越前市高瀬にある芳春寺(ほうしゅんじ)に向かいました。途中から やはり雨です。芳春寺は古く河濯権現(かわそごんげん)と呼ばれ、「河濯四光尊天」を御本尊に祀り、境内の芭蕉色紙塚は県内最古のものと説明版に記されていました。
芳春寺 本堂
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芭蕉翁之墓は、「古池や蛙飛込む水の音」の句を芭蕉が色紙に記し、弟子に渡し埋めたとされることから色紙塚というようです。入口の石碑には「芭蕉翁之塚」と刻まれています。
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真ん中が色紙塚、「芭蕉翁之墓」
芭蕉の墓碑に隣接するのは歌人宮崎童安の歌碑(向かって左)。(向かって右)は?墓碑の上部が欠けているようです。
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雨の中、芳春寺から紫式部公園まで歩きました。「ふるさとを偲ぶ散歩道」の看板が掲げられ、「ミニ庭園ゾーン」「歴史と文化ゾーン」「紫式部ゾーン」と続きます。
ミニ庭園ゾーンの芭蕉句碑
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『漸(やうやう)、白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嶽あらわる。』と本文に記載されている比那が嶽(現在の日野山ひのさん)を詠んだ句です。日野山は武生市の南境にある七九五メートルの山で付近では最高峰。山上に日永嶽神社があるとのこと。
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ここから見た日野山(比那が嶽)
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歴史と文化ゾーンの越前国印の碑
奈良時代の大宝律令で定められ、704年に鋳造に着手した諸国の印で大きさは方二寸(約6㎝)。今日、古文書に見られる国印は50余種あり、「大倭国印」「山背国印」のように四文字を篆書体で鋳たものであることなど、説明が刻まれていました。
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与謝野鉄幹の歌碑
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与謝野晶子の歌碑
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紫式部公園
越前の国主になった父藤原為時にしたがって、ここ武生に滞在した紫式部を偲んで造られた寝殿造の庭園がある公園です。紫式部が滞在したのは、20歳前の1年余りとのこと。紅葉がきれいでした。
入口
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釣殿
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紫式部像
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像の背後には歌碑と説明版が並んでいます。
Jpg

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紫式部が見つめる先は日野山(比那が嶽)です。
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雨が急に明るくなって、日が射してきました。日照雨(そばえ)です。紅葉が輝いてとても綺麗!
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本文
『鶯の関を過ぎて、湯尾峠(ゆのをたうげ)を越えゆれば、燧が城、かへる山に、初雁を聞きて、十四日の夕暮、つるがの津に、宿をもとむ。 』
湯尾峠(ゆのおとうげ)は旧北陸道の要地として栄え、北の庄府中からこの峠を通り、今庄宿、木の芽峠、栃の木峠を経て京都に達しました。
登り口でバスを降り、峠を越えて今庄まで歩きました。
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恐ろしそうな名前の池に続く分れ道がありました。ちこべ と読みます。南北朝時代、上野ヶ原の合戦で、雪が血の海に染まった。その時討ち取った大将の首をこの池で洗い、池が血で赤く濁ったことから、血頭池(ちこべいけ)と呼ばれるようになった。現在でもチコベと云う地籍が残っている。と説明版に記されていました。
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山道は登ったあと、振り返って見るのが好きです。
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雨は上がったようで良かった。落ち葉を踏みながら登ります。
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峠ご膳井跡という標柱が立ってました。明治天皇の御巡幸があったとのことなので、その為の井戸があったのでしょうか?
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ちょっと急坂ですが、もうすぐ頂上です。
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頂上は広く、十字路になっていました。
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明治11年明治天皇北陸御巡幸の時に、御小休みされた記念碑。
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案内版の奥に見えるのは孫嫡子(まごじゃくし)神社。初めて聞く名前です。
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疱瘡神(ほうそうがみ)を祀っているとのこと。疱瘡(天然痘
てんねんとう)は、世界で初めて撲滅に成功した感染症です。感染力と致死率の大きさから、悪魔の病気と恐れられていたので、病状が軽く済むようにと祀ったようです。笠神、芋明神の別名もあるとのこと。
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神社の向かい側に建つ芭蕉句碑
「月に名を つつみかねてや いもの神」
句意が分からず調べてみました。

(日ごろは人目を忍ぶ痘瘡神(いもがみ)も、この月の光にはさすがに隠れかねたかして名を表わしている。) 
峠には、痘瘡(天然痘)除けのお守りの孫杓子を売る茶店があり、店頭にその看板を出す。それを踏まえて、月の縁語「芋」(芋名月)に「痘瘡」を掛け、痘瘡神が芋に引かれて現れたとの笑いを下心に込めた。芭蕉全句鑑賞(田中空音)参照
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頂上の茶店は四軒あって、大いに栄えたとのこと。壱千有余年の歴史を秘めたこの峠も、鉄道の開通によって、次第にさびれたようです。

ここから今庄へと下ります。黄葉の中、ふかふかの落ち葉に埋もれながら歩きました。黄葉の間から今庄が見えてきました。
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開けた場所に出ると、そこはトンネルの上でした。湯尾峠の真下を北陸鉄道のトンネルが通っているのです。
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トンネルの上から
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今庄側からの登り口です。(道標はもう少し下ったところにありました。)
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雨上がりの泥濘を歩き、
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線路沿いを歩くと
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特急が通過していきました。
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今庄は、江戸時代を通じ宿場として越前でもっとも繁栄し、その町並みは約1キロメートルに及び、家屋が立て込んでいた。特に中町には、福井藩、加賀藩の本陣や脇本陣、問屋、そして多くの造り酒屋、旅籠が集まり、高札場もあったとのこと。その面影が残る、静かで趣のある町の狭い道を、バスのドライバーさんに、くねくねとゆっくり走っていただき、S先生の説明を聞きながら車窓から街を見学しました。

木の芽峠に向かう途中、国道沿いにある今庄総合事務所前の芭蕉句碑に立寄りました。
ここから見える愛宕山の山頂部に燧ヶ城があり、ここで、木曽義仲の軍が平維盛に攻め落されたのを悲しんで詠んだ句です。
  義仲の寝覚めの山か月かなし
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バスが木の芽峠に着いた時、ぱらぱらと白いものが降ってきて地面に転がりました。霰です。すぐ近くなので傘も持たずに降りました。木の芽峠は今庄と敦賀市の境にあり、北陸道の要所でした。ここに古い民家が一軒ありました。峠の茶屋といい、越前の玄関口としての番所で、前川家がその任に当っていたところです。
木の芽峠の茶屋
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現在お住まいの前川さんは、平貞盛の末裔で40代目とのこと、いろいろとお話を伺いました。秀吉がここへ寄って家系図を見て主家筋と驚き、金ヶ崎の戦いの尽力などに感激して、もう一度武将に戻るか自分の部下になってくれと頼んだそうだがご先祖様はどちらも断ったので秀吉は金の茶釜をくださったそうです。
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峠の茶屋の前に道元禅師の供養塔が建っていました。道元禅師が病気により京都に帰るため、永平寺を出発し送ってきた弟子と別れた場所とのことです。
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峠からの眺め、駐車場のバスが見えます。
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前川さんから梨を頂きました。普通の梨よりかなり小さく何という種類かしら?玄関を入った所にどんと置いてあり、ジャガイモのように見えました。
(旅から帰ってからの写真です)
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割ってみるとやはり梨です。
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ホワイトリカーと氷砂糖で漬けました。Photo_16
1日目の宿は、敦賀マンテンホテル。ツインの部屋で、友人と隣合う部屋の鍵を別々に渡され? と思ったら中は一緒でした。其々にベット・デスク・テレビ・トイレなどがあり、個室と同じ、仕切りも出来るようになっていました。

 

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