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2013年11月10日 (日)

奥の細道を訪ねて第15回 (2日目) 小松天満宮~医王寺(山中温泉)

10月19日 、2日目は小松から、最初に訪れたのは小松天満宮。加賀三代藩主利常が、前田家の氏神の菅原道真を祭神として、小松城鎮護のために創建したのが始まりで、以来前田家歴代によって手厚い庇護を受け、社運は隆盛したとのこと。本殿・拝殿、神門などが国の重要文化財になっています。
鳥居と神門
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本殿・拝殿
冬に備えて、雪囲いがしてありました。
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十五重の石塔 
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十五重の塔というのは珍しいかしら?説明版です。
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芭蕉は小松天満宮に連歌を奉納する同意を得ていたが、別当職だった連歌師(能順)との考え方の違いにより連歌奉納は出来なかったようです。ここに建つ芭蕉句碑もその連歌会の句ではありません。
   あかあかと日は難面も秋の風  芭蕉
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現在、小松天満宮周辺の梯川改修工事が進められていますが、国指定重要文化財である小松天満宮を現在の位置に保存したまま実施しているとのことです。
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莵橋神社(うはしじんじゃ)
地元では“諏訪さん”とよばれて親しまれている古社で、曾良の日記によれば、芭蕉はこの社の祭りの事を聞き、参拝して祭りを見物したようです。
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二の鳥居の前にある手水舎
ここで、講師の先生から正しい手水の作法を実践で教えていただきました。「杓底一残水」と云うそうです。杓にたっぷりと水を取ったら一歩下がって、左手、右手、左掌に受けた水で口を漱ぎ、残った水が杓の柄を伝うように手前に傾ける。ここまでは私も知っていました。その次が「杓底一残水」。杓を傾けても杓の底に僅かな水が残ります。これは全くきれいな水なので捨てずに元の場所に戻す。一滴の水も大切に!ということですね。
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二の鳥居
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本殿
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一の鳥居の向かい側に芭蕉句碑が建っています。すぐ脇に句碑はこちらではないか?と思われる石がありましたが、やはり、その石が最初の句碑で、風化が激しく文字も読めなくなったので、新しい句碑を建てたようです。
本文  小松と云ふ処にて
    しをらしき名や小松吹く萩すゝき  』 

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莵橋神社前の通りの向こう側に、すわまえ芭蕉公園があり、芭蕉句碑がありました。奥の細道の道中、小松で開かれた連句会の発句です。本文への記載はありません。
  ぬれて行や人もをかしき雨の萩   芭蕉
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この句を発句とした五十句が句碑の後ろに刻まれています。Photo_17
建聖寺(けんしょうじ)
芭蕉は小松に一泊の予定でしたが、地元の俳人たちの懇願に快諾し三泊することとなりました。芭蕉が二泊した建聖寺の山門に、はせを留杖ノ地と刻んだ石柱が建っています。
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建聖寺には、芭蕉十哲の一人、立花北枝が彫ったという芭蕉坐像(木像)があり、拝見させていただきました。
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境内には芭蕉句碑があります。二つ並んで、どちらも
   志ほらしき名や小松ふく萩すゝき   芭蕉
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本折日吉神社(もとおりひよしじんじゃ)
芭蕉はここで開かれた句会で「しほらしき名や・・・」の句を詠んだとのこと。
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境内に建つ芭蕉句碑
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神社の入口と境内に猿の像を見かけましたが、これらの猿は大神様の神使で神猿魔去(マサル)と呼ばれ、神様のお使いである猿は真猿(マサル)で、マサルは魔去る、勝るで一切の魔を払い去ることを意味しているとのこと。
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多太神社(ただじんじゃ) 本文
『此の所、太田の神社に詣ず。実盛が兜、錦の切れあり。其の昔(かみ)、源氏に属(しょく)せし時、義朝公よりたまはらせ給ふとかや。げにも、平士(ふらさぶらひ)のものにあらず。目庇(めびさし)より吹返しまで、菊から草のほりもの、金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に、鍬形打つたり。実盛、討死の後、木曽義仲、願状にそへて、此の社(やしろ)にこめられ侍るよし。樋口の次郎が使ひせし事共、まのあたり、縁起に見えたり。
  むざむやな甲の下のきりぎりす 』

社宝の兜は、源平合戦の時、木曽義仲が奉納した齋藤別当実盛公の兜で、芭蕉はその兜によせた感慨の一句(むざむなや甲の下のきりぎりす)を捧げました。
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入口に建つ兜の説明Photo_29参道に建つ齋藤実盛公の石像
倶利伽羅峠合戦で大敗を喫した平家は加賀の篠原で再陣して対峙したが、木曾義仲軍の前に挽回叶わず総崩れとなった。この時、踏みとどまって平宗盛より拝領の直垂(ひたたれ)と、げに平士のものにあらずの菊唐草に鍬形の兜で若やかに勇戦討死にしたのが実盛公でした。実盛公は、かって幼い義仲将軍の命を救った恩人で、老いの身を侮られまいと白髪を染めていた。首級を洗わせた義仲将軍は涙の対面の後、懇ろに弔い、その甲冑を多太八幡宮に納めました。時に実盛公73歳であったとのことです。神社で頂いたパンフレットより

実盛は、もとは越前の住人で、はじめ源義朝に仕え、保元・平治の乱に従軍しましたが、義朝が滅亡した後は、母方の縁で今度は平家方の宗盛に仕え、源氏方の木曽義仲追討の戦いに出陣するにあたっては、「故郷に錦を飾る」という諺により、宗盛より錦の直垂を着用することを許されたとのことです。かつて木曾に入る前の二歳のとき、実盛のところで七日間養育を受けたことのある義仲は、家臣手塚太郎が持参してきた首 きれいに洗われて元の白髪になった実盛の首に涙を流し、昔の恩に報いるため、実盛に対する手厚い回向を命じたとのことです。
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芭蕉の石像Photo_32芭蕉句碑
兜を拝観して芭蕉が詠んだ句は、義仲の家臣樋口次郎兼光が首を検めた時「あな無慚やな、実盛にて候ひけるぞや」という文句をそのまま借りた「あなむざむやな甲の下のきりぎりす」であったが、のちに「あな」の二字を捨てて口調を整えたようです。句碑の文字が「むざ」となっているのがちょっと気になる私です
   むざむやな甲の下のきりぎりす   芭蕉
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実盛の兜・他、拝観させていただき、いろいろなお話をお聞きして、帰るとき、出口に実盛の兜など5枚の絵葉書、1枚100円が目にとまり、兜だけ1枚買おうと思ったら、5枚セットでした。欲しいのは兜だけなので、ちょっと躊躇したら、「こちらなら差し上げます」って、いっしょに並んでいた背景色が違う兜の絵葉書を渡されました。「えっ」ってびっくりしたら、こちらは古いものだからとのことです。有難うございました。嬉しかった!!その後、講師の先生が戻って来られるのにすれ違いました。?と思ったけど、バスの中で、先生が「絵葉書1枚づつだけど、ひとり貰っていった方があるので、きっちり23枚(参加者24名)です」って。やっぱりいい先生です。
実盛の兜の絵葉書
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先生はもう1枚、加賀藩主が安産と子育てを祈願して奉納した神宝の絵葉書も頂いていました。Photo_3
那谷寺(なたでら) 本文
『 山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が嶽、跡に見なしてあゆむ。左の山際に、観音堂有り。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名付け給ふと也。那智・谷汲の、二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松(こしょう)植ゑならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
   石山の石より白し秋の風  』


芭蕉は、『山中温泉に向かって行く途中は、白山(白根が嶽)を後方に見ながら歩いていく。左の山際に観音堂があった。花山法皇が西国三十三か所の順礼をお果しになった後、観音像を安置して、那谷寺と名付けられたということだ。那智と谷汲の頭の二字をとって付けられた名だという。奇岩がさまざまに重なり、古い松が生え並び、萱葺きの小さなお堂が、岩の上に懸造りにしてあって、尊くすばらしいところである。』 と書いています。
那谷寺 山門
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金堂 華王殿(けおうでん)
御本尊は十一面千手観音
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庫裏庭園
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参道
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奇岩遊仙境
太古の噴火の跡と伝えられ、長い年月の間に波に洗われ、今日の奇岩が形成されたようです。
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本堂・拝殿が見えてきました
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本堂へと続く門を入り、石段を登ると
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大悲閣拝殿
岩窟中腹に建てられ、唐門は岩窟入口、本殿は岩窟内にあります。
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拝殿からの眺め
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三重塔と風月橋Photo_12
風月橋を渡ると展望台・山上鎮守堂が見えてきました。
鎮守堂からみた遊仙境
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芭蕉句碑
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左が句碑 石山の石より白し秋の風
右は翁塚と刻まれ、奥の細道の本文が刻まれていました。
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山中の温泉を行くほど・・・・・
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 那谷寺の敷地内ですが、若宮白山神社
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那谷寺、紅葉には少し早かったようです。

昼食後は芭蕉が宿泊した全昌寺です。芭蕉は山中温泉で曾良と別れた後、この全昌寺を訪れました。私たちはこれから山中温泉に向かうので、芭蕉の行程とは少し前後します。本文
『大聖持の城外、全昌寺と云ふ寺に泊まる。猶、かゞの地也。曾良も、前の夜、此の寺に泊まりて、
   終夜(よもすがら)秋風聞くやうらの山
と残す。一夜の隔て、千里におなじ。我も、秋風を聞きて、衆寮(しゆれう)に臥せば、明けぼのゝ空ちかう、読経すむまゝに、鐘版鳴つて、食堂(じきだう)に入る。けふは、越前の国へと、心早卒(さうさつ)にして、堂下に下るを、若き僧共、紙・硯をかゝへて、階(きざはし)のもとまで追ひ来(きた)る。折節、庭中の柳散れば、
   庭掃きて出でばや寺にちる柳
とりあへぬさまして、草鞋(わらぢ)ながら、書き捨つ。 』

全昌寺 山門
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山門は閉まっているので、拝観入口から
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本堂
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本堂に芭蕉の弟子の杉山杉風が造ったといわれる芭蕉像がありました。
Photo_39Photo_44芭蕉が宿泊した部屋は茶室として復元されています。
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芭蕉塚と曾良の句碑
芭蕉の句は石碑の側面に刻まれていると有りますが、見落としました。
Photo_29Photo_30芭蕉塚に並んで芭蕉句碑がもう一つ
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他に深田久弥句碑、木圭句碑などが有りました。
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奥の細道の全昌寺の章段 を刻んだ文化句碑
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羅漢堂の五百羅漢像は江戸時代末期の作で517体の仏像が完全に具備し、仏工の仕様書、一体一体の寄進者を記録した台帳が現存し、造立年代、願主、世話人、寄進者まで明確に知り得ることは全国的に見てもまれなことである。とのこと。
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汐越の松 本文
『越前の境、吉崎の入江を、舟に掉して、汐越の松を尋ぬ。
   終夜(よもすがら)嵐に波をはこばせて
        月をたれたる汐越の松     西行
この一首にて、数景(すけい)尽きたり。若(も)し、一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。  』

福井県あわら市にあった景勝地でしたが、現在はゴルフ場になっており、職員の案内で中を通してもらって行きました。
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松ぼっくりに交ってゴルフボールがいくつも落ちています。
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すぐ下が海岸です。枝が海面上に伸びて潮を被ることから潮越しの名が付いたようです。
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芭蕉が道中に眺めた白山、すこし雪をのせていました。
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芭蕉とも奥の細道とも関係なさそうですが、吉崎御坊跡に立ち寄りました。現在は跡地に「史跡吉崎御坊跡」の石碑が立ち、本堂跡、蓮如上人御花松、蓮如像、本光坊了顕のお墓(蓮如上人のお弟子さんで、火事の時、火中のお聖教を取りに入り、火中で自らの腹を割き、腹中にお聖教を納めて守り焼死したと伝えられている)などあり、御坊に向かう階段の西に浄土真宗本願寺派の別院、東に真宗大谷派の別院があり、西御坊・東御坊と呼ばれています。
吉崎御坊跡へ
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吉崎御坊
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西御坊
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東御坊
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蓮如上人の像
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二日目の最後は宿のある山中温泉の医王寺です。曾良の日記に、薬師堂と記されているのがこの医王寺とのことで、芭蕉も立寄ったのでしょう。
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この寺にも芭蕉坐像がありました。
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芭蕉が忘れたという杖もありました。ほんとかしら?
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住職さんがお話のあとに山中節を披露してくださいました。住職さんの山中節、素晴らしいです!肉声なのに、私の補聴器がピイーピイーと共鳴するのではずしました。こんなこと初めてです。外に出たらもう暗くなり始めていました。芭蕉句碑もあったようですが、ツアー配布の資料にその記載がなく、全く気が付きませんでした。それとも、皆さんが写真を撮っているので、後にしようと思ったまますっかり忘れちゃったのかしら???その可能性大です。

宿は山中温泉 河鹿然荘ロイヤルホテル。今回初めて、お土産などの荷物を宅急便で送りました。3日目はもうお土産を増やせません。



























































 

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