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2013年11月21日 (木)

奥の細道を訪ねて第15回 (3日目)山中温泉~永平寺~安宅の関

10月20日 ツアー3日目、山中温泉の朝、心配した通りの雨です。芭蕉は旧暦7月27日(新暦9月10日)~8月5日まで山中温泉に滞在しました。本文
『温泉(いでゆ)に浴す。其の功、有間(ありま)に次ぐと云ふ。
   山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ
あるじとするものは、久米之助とて、いまだ小童(せうどう)也。かれが父、俳諧を好みて、洛の貞室(ていしつ)、若輩のむかし、爰に来りし比(ころ)、風雅に辱しめられて、洛に帰りて、貞徳の門人となつて、世にしらる。功名(こうめい)の後、此の一村(いつそん)、判詞(はんじ)の料(れう)を請けずと云ふ。今更、むかしがたりとは成りぬ。
曾良は腹を病みて。伊勢の国、長嶋と云ふ処に、ゆかりあれば、先立ちて行くに、
   ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原  曾良
と、書き置きたり。行くものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて、雲にまよふがごとし。予も又、
   けふよりや書付消さん笠の露  』

雨ですが、ひどい降りではありません。山中温泉を散策しました。
鶴仙渓(かくせんけい)は、こおろぎ橋から黒谷橋まで約1㎞、大聖寺川の渓谷です。こおろぎ橋へと下る坂道に芭蕉句碑がありました。ここで詠まれた句ですが、『おくのほそ道』に記載はありません。
    漁火に河鹿や波の下むせび  芭蕉
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こおろぎ橋 
名の由来は、落ちると危険な事から、「行路危」。また昆虫の蟋蟀とも。山中八景の一つ「高瀬の漁火」として有名なこの地に芭蕉は8月2日頃に訪れて「いさり火に・・・・・」の句を詠んだそうです。
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川に沿って遊歩道を歩きます。昨夜泊まった河鹿荘ロイヤルホテルが見え、遠方にあやとり橋が見えます。ここは昔、蛟竜(こうりゅう)が棲み、里人を困らせていたが、道明という僧がこれを退治した。という伝説のある深い渕で、芭蕉は7月29日と30日の両日訪れたとのこと。「道明渕の秋月」として、山中八景の一つです。蛟竜は中国の想像上の動物で、水中にひそみ、雲や雨にあって天上に登り龍になる
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あやとり橋の傍に、芭蕉句碑が建っています。「菊はたをらぬ」は「菊は手折らぬ」で、中国の桃源郷、菊慈童の逸話をもとに、「山中の湯に入ると、命が延びたように感じられる。そして湧き出る湯の匂いは、あの長寿延命の伝説のある菊を手折るまでもないほど、香ばしく立ちこめている」との句意。句意は」NHK講座テキスト参照
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鶴仙渓の景観。紅葉はまだですね。
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黒谷橋近くに芭蕉堂がありました。100年ほど前に、金沢の俳人の呼びかけで、芭蕉をしたう全国の俳人たちによって建てられたようです。中に芭蕉像が安置されているとのことですが、暗くて、撮れませんでした。ここには、桃妖(芭蕉が宿泊した泉屋の久米之助)の句碑、芭蕉堂建立発起人となった俳人の句碑、芭蕉堂建立の碑などが有りました。
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黒谷橋を芭蕉が訪れたのは8月1日。山中の俳人自笑の記録によると、芭蕉は平岩に坐して渓流の音を聴き「行脚のたのしみここにあり」と手を打って絶賛したとのことです。
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この歩いてきた道を「芭蕉の道」というのですね。
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芭蕉の館は、芭蕉が山中に滞在した当時は泉屋に隣接した湯宿で、元・扇子屋(桃妖の妻の実家)を修復したとのことです。この地は、曾良が腹を病み、伊勢国長島の縁故を頼ってひと足先に旅立ちたいと芭蕉に申し出た、芭蕉と曾良の別れの地でもあります。

 ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原  曾良
病の身ではあり、旅先で野たれ死にをするかもしれない。だが、風雅に生きるものとして、同じ野たれ死にをするのならば、折からの季節にふさわしく、萩の花の咲く野原で死にたいものだ。
 けふよりや書付消さん笠の露  芭蕉
今日からは曾良と別れて一人旅をしなければならなくなった。これからはもう、笠の裏に書き付けてあった「同行二人」の文字を、笠に置いた露で涙ながらに消してしまうことにしよう。(句意 NHK講座テキスト参照)
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館内には、芭蕉関連の資料を中心に、伝統工芸としての漆器・温泉資料などが展示されていました。
展示品 芭蕉真蹟の掛軸です。「菊はたおら」と書いてあるようですが?『おくのほそ道』では「菊はたをら」です。この句も推敲して直したのかしら?
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展示品 ますほの小貝は西行法師が敦賀の色の浜で歌に詠み、その後芭蕉も敦賀を訪れて句に詠んだ貝です。「ますほ」は「まそほ」と同じで、意味は赤い色です。桜貝のような、ベニガイとのことだそうです。敦賀は次回(最終回)のツアーの予定地です。拾えるかしら?
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泉屋跡  芭蕉は泉屋に八泊滞在しました。
『宿の主人は久米之助といい、まだ少年である。この少年の父は、俳諧を好んだ人であり、かつて京都の俳人貞室がまだ未熟な若年の時代に、この地にやってきた折、俳諧の事でこの少年の父に辱めを受け、それから京都に帰って貞徳の門人となってから発奮して励み、世にその名を知られるようになったのであった。功成り名を遂げた後も、貞室は、この山中の人々からは、俳諧の点料(指導料)を受けとらなかったということである。それも、今となっては昔話となってしまった。』と『おくのほそ道』に記されています。NHK講座テキスト参照
当時、久米之助は14歳。芭蕉は久米之助を弟子として認め、芭蕉の俳号「桃青」から桃の一字を与え「桃妖」を名乗らせたとのことです。
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菊の湯は男湯と女湯とが別館になっています。こちらは総湯菊の湯(男湯)。玄関前の道を隔てて足湯があります。「菊の湯」の名は、芭蕉が詠んだ句『山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ』に因んで付けられたようです。
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菊の湯(女湯)に並んで建つ山中座。豪華な蒔絵の絵天井など、格調高い舞台で演じる山中節の唄と踊りが鑑賞できます。私たちはお土産などを見ただけ。
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散策後、バスで向かった丸岡城
別名 霞ヶ城とも呼ばれ、満開の桜の中に浮かぶ姿がひときわ美しいとのこと。織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせた城で、現存する天守閣としては最古のものだそうです。勝豊以後、安井、青山、今村、本多(4代)、有馬(8代)の居城を経て維新となりました。
天守閣 石垣の傍に“一筆啓上”書簡碑があります。
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“一筆啓上”書簡碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑。これは、徳川家康の家臣 本多作左衛門重次が、陣中から家族あてに書き送ったもので、最も短い手紙文を記念した碑です。講師の先生の説明に、この辺りは火事が多かったようです。お仙は重次の嫡男仙千代君のことで、仙千代君は脱腸だったのであまり泣かせないようにと。戦国時代馬は大事なので、よく世話をして良い馬を育てなさい。ということのようです。仙千代は後に丸岡城主(初代丸岡藩主 本多重成)となります。手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」だそうです。かしくは女性の手紙ですが、当時は男性も使っていたとのこと。雨でよく読み取れません。
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天守閣の左手には芭蕉句碑があります。『猿蓑』(去来・凡兆共編)の冒頭句です。
   初しぐれ猿も小蓑をほしけ也  芭蕉
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句碑の傍のこれは?
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天守閣に登りました。かなり急な階段で、手すりと綱が付いています。
天守閣から
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丸岡城を後に永平寺に向かいました。本文
『五十丁、山に入りて、永平寺を礼(らい)す。道元禅師の御寺(みでら)也。邦畿(ほうき)千里を避けて、かゝる山陰に跡を残し給ふも、貴き故有りとかや。』
『街道から五十丁ばかり山の手に入り、永平寺を礼拝した。永平寺は道元禅師の開かれた寺である。都に近いところを避けて、こんな山陰に教えの跡としての寺をお残しになったのも、仏道修行に対する深い配慮があったからということである。』 NHK講座テキスト参照
正門
大きな二本の石柱。一つは、先生に教えていただいた「杓底一残水」(しゃくていのいちざんすい)、もう一つは、「汲流千億人」と書かれています。「ながれをくむせんおくのひと」と読むそうです。二つ合わせると「一杓の水でも、元の川へ流れることによって多くの人が恩恵にあずかる」という禅的表現とのことです。
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唐門 正門を進むと正面に見えてくる勅使門(宮中からの勅使などが入山する際の門)です。
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唐門の手前、左手の通用門をはいると吉祥閣。参拝者の受付、講堂、宿泊施設のある建物です。ここで靴を脱ぎ、雲水さんの説明を伺ってから、その先を案内をしていただきます。

吉祥閣」の隣が「傘松閣」
160畳敷きの大広間です。旧傘松閣の建立された当時(昭和5年)、一流の日本画家144名による花鳥彩色画230枚の絵天井の間でした。

回廊を渡って山門へ
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山門 二階には、五百羅漢が祀られていて、中央に後円融天皇の勅額が掲げられていとのこと。、
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吉祥の額 「吉祥山永平寺」の名前の由来が掲げられています。
両側の柱には、ここは出家修行の道場であり家風はすこぶる厳格である。求道心の在る者のみ、この門をくぐるがよい、と入門の第一関を提起しています。山門を門として使用できるのは禅師さまと上山し修行に入る雲水さんだけ。参拝者が外に出ることは許されません。
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両側に安置されている四天王(仏教の守護神)Photo_20

中雀門 山門と仏殿の中間に位置する門。
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大庫院 一階は台所、玄関正面に韋駄尊天が祀られ、柱には「大すりこぎ」が掛かっています。二階は来賓接待の間、三階は大広間に伊藤彬画伯の襖絵があるとのこと。
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大庫院玄関正面の韋駄尊天
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大すりこぎ棒
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瑞雲閣 大庫院の一部
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僧堂 雲堂、座禅堂とも呼ばれ、修行の根本道場。文殊菩薩を安置し、その周りに約90人が座禅できる席が設けてあるようです。
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階段状回廊 
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仏殿
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仏殿内部 須弥壇(しゅみだん)と呼ばれる壇の上に本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、三体の仏像は過去・現在・未来を表しているそうです。
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法堂 禅師様の説法の道場で、朝のお勤めなどの各種法要もここで行われるそうです
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法堂内部 中央に聖観世音菩薩が祀られており、階段の左右に阿吽(あうん)の白獅子が置かれています。
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承陽門と承陽殿 永平寺の御開山道元禅師の御真廟いわばお墓(お霊屋)です。
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承陽殿内部 道元禅師の御尊像と御霊骨、二祖~五世禅師の御尊像などが祀られ、拝殿には歴任禅師の御位牌、全国の曹洞宗寺院住職の御位牌など、が祀られているそうです。
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鐘楼堂 除夜の鐘で有名な大梵鐘は重さ約五トン。一日に朝・昼・夕方・夜の四回、一撞くごとにお拝をして、修行僧が尽くとのこと。
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一文字廊と仏殿
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本文
『丸岡、天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。又、金沢の北枝と云ふもの、かりそめに見送りて、此の処まで、したひ来る。所々の風景、過ぐさず、おもひつゞけて、折節、あはれなる作意など聞こゆ。今既に、別れに臨みて、
   物書きて扇引きさく名残哉  』

芭蕉は古いゆかりのある人が住職をしている天龍寺を訪ねました。金沢の北枝が、ほんのそこまでと云うことだったが、とうとう此処までついて来た。と記されています。
天龍寺 山門と芭蕉塚(右端)
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本堂と境内
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余波(なごり)の碑
金沢からの道すがら、北枝は所々の風景を見逃さず、句に案じ続けて、折々には情緒深い句を作って聞かせてくれたのであった。芭蕉は、いよいよ別れるにあたって、『物書きて扇引さく名残哉』と詠みました。実際に扇を引裂くのか?それとも、引裂くような気持ちという比喩か?強烈な別離のイメージです。NHK講座テキスト参照
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芭蕉句碑
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一人になった芭蕉は天龍寺の後、永平寺に参詣し(たぶん遥拝)、福井に向かいます。本文
『福井は、三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆうめし)したためて出づるに、たそかれの道たどたどし。爰(ここ)に、等栽と云ふ、古き隠士有り。いづれの年にや、江戸に来(きた)りて、予を尋ぬ。遥か十(と)とせ余り也。いかに老さらばひて有るにや、将(はた)、死にけるにやと、人に尋ね侍れば、いまだ存命して、そこそことをしゆ。市中ひそかに引き入りてあやしの小家に、夕顔・へちまの、はえかゝりて、鶏頭・はゝ木ゝに、戸ぼそをかくす。扨(さて)は、此のうちにこそと、門を叩けば、侘しげなる女の出でて、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは、このあたり、何某と云ふものゝ方に行きぬ。もし用あらば、尋ね給へ」と云ふ。かれが妻なるべしと、しらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋ねあひて、その家に二夜とまりて、名月は、つるがの湊にと、旅立つ。等栽も、共に送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折(しおり)と、うかれ立つ。 』

芭蕉は、福井では、もう大分年老いているはずの等栽と云う人を尋ねました。みすぼらしい小さな家で、侘しげな女が出てきて、主人は近くの人の家に行ったので、用があるならそちらへと、無愛想な対応をしますが、芭蕉はこの家に二泊した後、名月を敦賀で眺めようと、旅立ちます。等栽も道案内をしましょうと浮かれた様子です。
等栽宅跡
正確な場所は分かりませんが、等栽が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、左内町の顕本寺に建てられたことが明らかになり、この近所に住んでいたことがわかったそうです。
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芭蕉句碑 等哉を訪ねた折の作ですが、『おくのほそ道』本文に記載は有りません。   
   名月の見所問ん旅寝せむ
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等栽宅跡のすぐ近く、お市の墓があると先生が案内してくださいました。歩いて2~3分かしら?西光寺です。
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柴田勝家と市のお墓
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北の庄の礎石
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本文
『漸(やうやう)、白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嶽あらわる。あさむづの橋を渡りて、玉江の芦は、穂に出でにけり。鶯の関を過ぎて、湯尾峠(ゆのをたうげ)を越えゆれば、燧が城、かへる山に、初雁を聞きて、十四日の夕暮、つるがの津に、宿をもとむ。 』
玉江の橋
この辺りは、昔は低い土地で、よく川が氾濫するし、排水も不十分だったため、いつも沼のようになっていた。そして一面に芦が茂っていた。芭蕉がこの地を訪れたとき、「月見せよ玉江の芦を刈らぬ先」の句を詠んで以来、その名が知られるようになった。との説明版が立っていました。向かって右は「親鸞聖人御遺跡」と刻まれています。
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あさむつ橋 清少納言が『枕草子』で「橋はあさむつの橋」とあげ、催馬楽にも歌われて以来、藤原定家、松尾芭蕉らの歌句に詠まれた歌枕の名所
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向い合せに、西行法師の歌と芭蕉の句が刻まれています。
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越に来て富士とやいはん角原の
        文殊かたけの雪のあけぼの  西行
 
朝六つや 月見の旅の 明けはなれ     芭蕉
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小松空港へ向かう帰路の途中、片山温泉の近くの篠原新町にある実盛塚を見学しました。
実盛塚入口
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実盛塚 源平の争乱の中、篠原の地で命を失った斉藤実盛を供養するために実盛の亡骸を葬ったと伝えられているところです。
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篠原古戦場跡
倶利伽羅峠で大敗を喫した平家が態勢を立て直し木曽義仲率いる源氏に戦いを挑んだ場所です。
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劣勢の平家軍の中で斉藤別当実盛がただひとり一騎踏みとどまって戦った。実盛は、老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦したが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最後を遂げた。樋口次郎兼光が討ち取った首を池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わった。実盛は、かつて義仲の父義賢が源義平に討たれた際に、幼い義仲を木曽に逃した恩人だったのである。(説明版より)
首洗池
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池畔には実盛の首級を抱く義仲と樋口次郎、手塚太郎の銅像や芭蕉の句碑がたっていました。
左から木曾義仲、樋口兼光、手塚太郎光盛
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実盛の首級を抱く義仲の像
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芭蕉句碑
   むざんやな兜の下のきりぎりす』
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最後に立寄った安宅公園 安宅の関(あたかのせき)
PM5:42 晩秋の日暮れは早い!もう真っ暗、懐中電灯を使いました。「こんなに暗くなるとは思わなかった」と先生も残念そう・・・
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兄、頼朝に追われた義経が安宅の関を通る際、関守・富樫の厳しい尋問にあい、その危機を乗り切るため弁慶は、偽の巻物を広げて即興で「勧進帳」を読み上げ、さらに嫌疑がかけられると、主君である義経を打ち据える。その姿に感動した富樫が通行を許可した。という勧進帳の像
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長く感じた一日でした。空港内の食堂で夕食を済ませ、小松19:50発、羽田20:55着、21:40発 所沢行のバスで無事帰宅しました。次回はいよいよ最終回、完歩出来そうな予感です。(芭蕉と曾良さんのように歩いた訳ではないけどね)

 

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