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2013年9月の投稿

2013年9月26日 (木)

奥の細道を訪ねて第14回 (2日目) 能生白山神社(新潟県糸魚川市)~荒屋神社(富山県射水市) 

2日目(9月7日)、赤倉温泉の朝、いつものように30分ほどの散策を楽しみました。コスモスが咲いて、ナナカマドの実が赤くなっていました。岡倉天心六角堂と天心公園がある赤倉温泉は、岡倉天心の終焉の地だそうです。が、時間がなくてそこまでは行きませんでした。
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2日目の最初に訪れたのは能生(のう)白山神社(新潟県糸魚川市)。延喜式に記載される奴奈川神社にあたり、本殿は室町時代の特色を示しており、国の重要文化財とのこと。

二の鳥居を入った左手に「越後能生社汐路の名鐘」の石碑に芭蕉の句が刻まれています。芭蕉は能生の玉や五郎兵衛に宿泊し、「汐路の鐘」の句を読みました。「おくのほそ道」には記載されていません。
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「汐路の鐘」とは、義経主従が山奥へ逃れる途中能生浦に滞在し、武運長久を祈って常陸坊の名を刻んだ梵鐘を寄進したといわれる鐘。この鐘には汐が満ちてくると、人が触れずとも、一里四方になり響くという伝説があるとのこと。明応のころ消失したが、その残銅をもって鋳返したそうです。
石碑に刻まれた芭蕉の句
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拝殿
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拝殿の奥には御本殿
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本殿前に湧き出る名水「蛇の口の水」。昔、信州戸隠神社の普請のとき、ここから鉋屑が流れ出たという伝説の水で、四季を通じて水量の変化がないそうです。近所の方が水汲みに来ていました。
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境内の池と末社(秋葉神社)
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境内
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御旅所脇の石段を上ると道路に面して宝物殿が建っています。
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一の鳥居
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一の鳥居前の道を上った所、道路を挟んで宝物殿の反対側、数段の小高くなった雑草の中に建つ「花本大明神碑」。花本大明神とは、芭蕉百五十回忌に田川鳳朗が二条家に請願し、芭蕉に贈られた神号とのことで、芭蕉は神様(俳句の)ですね。この碑は「おくのほそ道」300年を記念して建てたようです。「花本」は芭蕉が敬愛した西行法師の「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌にちなんだものといわれているようです。
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向かい側には民族資料館が建っていました。
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ツアー配布の資料によると、芭蕉は五智国分寺・居多神社へ参拝後、名立による予定だったが、紹介状が届いていないため、先へ進み、能生に夕刻到着し玉屋五郎兵衛へ泊りました。玉屋旅館は現在も営業しています。白山神社から歩いて10分程ですが、移転しているので、芭蕉の時代は此処ではありませんでした。通りがかった車の方が、当時の場所を教えてくさったので、そちらのほうに行ってみると、それらしい雰囲気の建物(家)もありましたが、お住まいの方にお聞きしても?? 分かりませんでした。
現在の旅館 玉屋
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梶屋敷附近の早川を渡るとき、芭蕉は転んで裾を濡らしたので、干して乾かすために旅籠で一休みした。と先生のお話です。その早川を過ぎたあたり、糸魚川 熊野神社に芭蕉句碑がありました。古い社で神額の縁が欠けて、文字も読取れません。
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芭蕉句碑 
元禄7年、芭蕉最後の年の元旦に、江戸で詠まれた句だそうです。
句意は「床の間の蓬莱飾りの前にして、神々しい儀式の行われる伊勢神宮のあたりから初便りを聞きたいもだ」とのこと。
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神社の前の田は、黄金色に稲が稔っていました。
 みのりだの ほとりにふりし やしろかな  ひこばえ
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芭蕉が越えた難所、親不知海岸は青海から砺波を経て市振まで、全長15キロあり、親不知駅を中心として、東側が子不知、西側が親不知ですが、その総称も親不知とのこと。北アルプスが日本海に没する断崖絶壁です。越後に移った平清盛に会いに行く妻が、赤ん坊を波にさらわれた、その悲しみを「親知らず 子はこの浦の 波枕 越後の磯の あわと消えゆく」と詠んだことが地名の由来とか。
国道8号線の親不知入口
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かなり急な坂を下ります
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前方に滝が見えてきました
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こんなところにトンネル(立入禁止)が、北陸本線旧線の親不知トンネルかしら?
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荒波寄せ来る海岸が眼前に飛び込んできました
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岩にあたって砕けて
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後から後から押し寄せて、、、怪獣のようです
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断崖のうえの道路からの展望
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佐渡はあいにく見えません。この後雨が降出しました。親不知を歩いた後で良かった。
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ここに親不知の地形の模型と説明版があり、私たちが海岸まで往復した道が分かりました。説明版によると③は、髭剃岩で、波をよけてしがみついたが、ずり落ちて髭が擦り切れたという岩。この辺り一帯を「弁慶の泣き顔」というそうです。
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模型の一部分と説明
芭蕉も、このような危険な道を歩いたのですね。ほかに道はなかったのです。崖の途中を切り開いて国道が出来たのが明治16年、鉄道が敷かれたのが大正元年だそうです。
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道の駅・親不知で昼食をとり、市振集落の東にある「海道の松」に向かいました。昔の北陸道は、この松から海岸へ降り、旅人は波におびえながら難所を越えて東に、また、西へ上る旅人は、10キロ余りの波間を命がけでかいくぐり、この松にたどりついてホッとしたのでしょう。
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弘法の井戸
市振の村はずれの茶屋に坊さん(弘法大師)がきて、「水がほししい」と言ったところ、茶屋の婆さんは1キロも遠い赤崎のチビタミズ(冷たい清水)を汲んできてあげた。坊さんはこれをあわれんで足元の土をツエで三度突きこの井戸をつくった。ということです。
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本文
『けふは、親しらず・子しらず・犬戻り・駒返しなど云ふ、北国一の難所を越えて、つかれ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間(ひとま)隔てゝ、面(おもて)の方(かた)に、若きをんなの声、二人計(ばか)りときこゆ。年老いたるをのこの声も交りて、物語するをきけば、越後の国、新潟と云ふ処の、遊女成りし。伊勢参宮するとて、此の関まで、をのこの送りて、あすは、古里にかへす文したゝめ、はかなき言伝(ことづて)など、しやる也。白波のよする汀(なぎさ)に、身をはふらかし、あまのこの世を、あさましう下(くだ)りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごふいん)、いかにつたなしと、物云ふを、聞く聞く寝入りて、あした旅だつに、我々にむかひて、「行末(ゆくすゑ)しらぬ、旅路のうさ、あまり覚束なう、悲しく侍れば、見えがくれにも、御跡(おんあと)をしたひ侍らん。衣の上の御情(おんなさけ)に、大慈のめぐみをたれて、結縁(けちえん)せさせ給へ」と、なみだを落す。不便(ふびん)の事には、おもひ侍れども、「我々は、所々にて、とゞまる方(かた)おほし。唯(ただ)、人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、必ずつゝがなかるべし」と、云ひ捨てて出でつゝ、あはれさ、しばらくやまざりけらし。
  一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
曾良にかたれば、書きとゞめ侍る。』

この句碑がある長圓寺
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芭蕉句碑
NHK講座テキストによる句意。自分のような世を捨てた僧形の旅人と、花やかながら罪深い遊女とが、今夜たまたま同じ一軒の宿に泊まり合わせた。折から、庭には萩の花がなまめかしく咲き、空には澄んだ月の光が下界を照らしていて、なんとなく遊女と自分との不思議なめぐり合わせを象徴しているかのようだ。
また、テキストでは、この「市振」の章段での遊女との出会いは、いかにも物語めいた趣向になっており、やはり、前の章段{七夕伝説}などから連想された虚構の出会いであったとみるのが自然だと思われます。これも「おくのほそ道」における一つの幻想空間として設定されたものではないでしょうか。とのこと
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遊女との出会いが実際の体験であったかどうか?分かりませんが、芭蕉は市振の桔梗屋に宿をとり、上記の名句を詠みました。桔梗屋は、脇本陣でしたが、大正の大火で消失してしまい、現在は跡地に標柱と説明板があるのみです。説明版に、良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだとありました。
  市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月 
桔梗屋跡
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市振の関所跡が市振小学校の一角にありました。天然記念物 関所榎が立つ小学校の校庭はかって市振の関所があったところです。
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境一里塚
加賀藩領内における第一号のもので、県内において、当時のままの姿で残されているのはここだけ。一里塚の面積は五間四方(約82㎡)とされ塚には必ず榎を植えたとのことです。
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日本一厳しいといわれた境関所跡
明治2年、関所が廃止されると跡地は小学校となりました。小学校の閉校後に「関の館」が
建てられ、境関所の歴史を物語る各種の資料が展示されています。
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関所の池と「関の館」
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小学校の名残
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北陸本線の第6北陸街道踏切を渡った少し先、富山県新川郡朝日町元屋敷に芭蕉句碑がありました。お寺とか神社の境内ではなく、何もない小さな公園のような場所です。写真が下手で見難いですね。
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碑文の文字が深く刻まれて、とてもはっきりしています。
いよいよ加賀の国だなあ、という感慨が込められており、そこに来る途中の「早稲の田」のイメージと、今眼前に見る「海」のイメージがモンタージュのように合成された一句。(NHK講座テキスト参照) (本文は3日目に)
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延喜式に名を残す、滑川市の櫟原(いちはら)神社。芭蕉句碑がありますが、なぜこの句なのか?不明とのこと。
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元禄4年に詠んだ句です。
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滑川市の徳城寺には有磯塚があります。
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有磯塚は芭蕉の七十回忌に、滑川俳壇を代表する川瀬知十らが句碑の建立を思い立ち、有磯の砂を手でさらえ、荒波かかる自然石を荷い運んで、地元ゆかりのこの秀吟を刻み、古刹徳城禅寺境内に建立した。(説明版より)
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ガラス越なので、手前にある複製の句碑です
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有磯塚の中の句碑の背後にあるのは知十塚(芭蕉句碑を建立した)です。Photo_31
富山市の水橋神社。
拝殿には奉納の絵馬が多い。中でも応真斎松浦守美の描く源義経の海士ケ瀬(あまがせ)の故事が有名である。伝えるところでは、文治年間、義経が兄頼朝に追われ、ひそかに北陸路を経て奥州に逃れようとして水橋の渡にさしかかり河水の深浅、渡しの難易を計りかねて当惑していたところ、海士(あま)があらわれ、義経主従を教導して、無事に渡した。この海士は海神の化身であったという。(説明版抜粋)
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奥の細道の旅で、金沢から小松へ向かう途中で詠まれた句の句碑が建っています。台座の文字は「青桃祠」だそうです。(本文は次回15回目に)Photo_35
放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)
富山県射水市、芭蕉が参拝したかどうか?不明です。芭蕉句碑と大伴家持の歌碑があります。境内裏手は奈呉の浦ですが、海浜は浸食が激しく、砂浜が2キロも沖合につづいていたというかつての面影はないとのことです。
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芭蕉句碑
富山に入ってから、早稲の香や・・・の句碑が多くなりますが、刻まれた文字はそれぞれ違った書き方ですね。説明版に沿うようにしています。Photo_38
荒屋神社、放生津八幡宮と同じ射水市にあります。
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境内
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やはり早稲の香の句碑ですが、前書きが刻まれていました。
「都に遠き名所は世にわすらるゝものぞかし此越之国奈呉は萬葉にも見えたる名所なり翁が書けるおくの細道にも此所にてよめる一句ありそを後のしるしにせむと南呉洲が乞ふによりて筆をとる
 ときに大正三年八月五日 公爵二条基弘
早稲の香や 分け入る右は 有磯海
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放生津八幡宮と荒屋神社は、翌日の予定でしたが、この日に回った方が効率的とのことでした。少し疲れました。宿は高岡マンテンホテル。夕食はそれぞれ自由に、とのことで、友人とホテルの傍のラーメン屋さんへ行きました。


























 

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2013年9月13日 (金)

奥の細道を訪ねて第14回 直江津~高田 (1日目)

芭蕉の足跡を訪ねるツアー、14回目は黒井宿(新潟県 直江津)から倶利伽羅峠(富山県 小矢部)まで、2泊3日(9月6日~8日)の旅でした。1日目は新幹線越後湯沢駅で下車し、バスで直江津の本敬寺に向かいました。
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ここに芭蕉句碑があります。案内板によると、笈日記に掲載されている句で、「おくのほそ道」の句ではありません。「あすならふ」は翌檜(あすなろ)で、葉が檜に似ているので、明日は檜になるという意味でこの名が付けられている。「花が咲き盛っているあたりに、あすは檜になろうと思いつつ立って、年を経てゆく翌檜の姿がさびしい」との句意。季語は花(桜)ですね。
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この辺りは黒井宿のあったところで、大名や重臣が泊まる本陣、脇本陣や旅人が泊まる旅籠、木賃宿などがあり、町並みの中で幕府が決めた一定の場所に造られ、街道の道幅より広く道が造られていました。この広い道幅が黒井宿のただ一つの名残であると、本敬寺の塀に説明版が掲げられていました。
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直江津駅前のホテル センチュリーイカヤで昼食をとりましたが、ホテルを出て左方向、ほんの少し先に林 芙美子著「放浪記」に載る「継続だんご」のお店(三野屋)があります。
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  ~~ 旅人の命つなぎし団子かな 五風 ~~ (お店のチラシより)
自分のお土産に買いました。栗饅頭のような感じで美味しかった!
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放浪記 抜粋 (継続だんご折箱の帯封より記載部分のみ抜粋」)
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森鴎外(本名 鴎外森林太郎)の小説「山椒大夫」で、人買いに騙され、安寿姫と厨子王丸は丹後・由良の山椒大夫に、母親と姥竹は佐渡の農家に売られ、船で別れ別れになる場面が、ここ直江津(直江の浦)でした。ここ関川の河口に安寿姫と厨子王丸の供養塔が建っていました。
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「山椒大夫」は、説経節の「さんせう太夫」に想いを得て書かれたといわれ、直江の浦の情景が、より細かく描かれているとのこと。私は子供頃の絵本の記憶しかなく、いちど確り読んでみたくなりました。900年もの昔(平安時代末期)のことです。
「山椒大夫」文学碑の碑文
 
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芭蕉が宿泊した古川屋跡まで直江津の街を散策しました。(街に掲げられていた地図の一部)
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安寿姫と厨子王丸の供養塔から裏に回ると琴平神社(供養塔は神社の敷地内)。洪水の時に石祠が見つかったことから、航海安全の神様として社殿を建てたそうです。
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鳥居を入って正面に古い芭蕉句碑があったようですが、皆に遅れて見ていませんでした。私が見たのは、社殿の脇の芭蕉句碑(七夕の前夜この直江津で詠んだ句)でした。説明版によると、句意は「明日は七夕である。1年に1度の牽牛、織女の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ」とのこと。Photo_4
ここで先生が見せてくださった地図、琴平神社から親鸞上陸と書かれた間は、芭蕉の時代は通行できなかったようで(説明がよく聞き取れませんでした)ピンクのマーカーで示したように歩いたようです。
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芭蕉は美濃の商人宮部弥三郎の紹介状を持って聴信寺に泊まる予定であったが忌中とのことで断られ、寺を出たが、石井善次郎が芭蕉と知り、戻るように説得、芭蕉は断っていたが雨も降りだしたので、古川屋へ泊まることになった。夜になって句会が開かれ、文月や・・・の句はこの句会で詠まれたとのこと。聴信寺には、翌日挨拶に行っているようです。
聴信寺
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先生が、確証はないけど、ここが古川屋だったのではないか?と案内してくださいました。「古川 ○ 」の表札がありました。
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バスで芭蕉が参拝した居多神社に向かいました。
居多神社は大国主命と奥様の奴奈川姫と二人の間に生まれた建御名方命の三神が御祭神とのこと。
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専修念仏(念仏をすれば救われるという教え)禁止により、越後国府へ配流となった親鸞聖人は居多ヶ浜に上陸し、まず、越後の一の宮である居多神社に参拝しました。以後7年間を越後で生活したとのこと。奥に見えるのは稲荷神社。
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親鸞聖人が居多神社に参拝し、「すゑ遠く 法を守らせ 居多の神 弥陀と衆生の あらん限りは」と詠み念仏が盛んとなりますようにと祈願したところ、一夜にして居多神社境内の葦が片葉になってしまった。という越後七不思議「片葉の葦」が境内に群生していました。
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居多神社に近く、五智国分寺があります。
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親鸞聖人が一時寄寓していたお寺です。
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山門を入ると左手に芭蕉句碑がありました。奥の細道行脚で、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句ですが、本文への記載は有りません。説明版には、「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」とありました。碑文で読取れるのは「芭蕉翁」の文字のみ。
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国分寺の住職が親鸞聖人と比叡山で同学の友であったので、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結び、住まわれたそうです。竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれ、草庵には、鏡ヶ池に姿を映して刻んだ親鸞聖人坐像(等身大の自刻像)が安置されているとのことです。
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国分寺の北にある鏡池
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五智国分寺の句碑と同じ句を刻んだ句碑が金谷山への坂道を登りきる手前、左手の崖の上にありました。芭蕉が宿泊した高田城下の医師細川春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったそうです。
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ここ金谷山は日本のスキー発祥地とのことで、記念碑やレルヒ少佐(日本に初めてスキーを伝えた)の銅像、日本スキー発祥記念館などがありました。
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ここからの眺め
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この反対方向にスキー発祥記念館が見えたのですが撮ってませんでした。
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高田にはもう一つ、正輪寺に芭蕉句碑がありました。
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この句は芭蕉が武士達の花見を通りすがりに見て詠んだものと思われる。「景清」とは平家の侍大将で「悪七兵衛景清」と言われた人並みはずれた剛勇の士のことであり、「悪七兵衛と呼ばれた景清のような強い武士も、花見の席ではただの七兵衛になって花見を楽しんでいるようだ。」という内容の句で、翁草に掲載されている。と説明版にありましたが、どこで詠まれた句なのか?この辺りとは関係なさそうです。
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バスで高田駅前ロータリーを一回り、車窓からから見た高田駅。趣がありますね。
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高田は豪雪地帯。どこの家にも2階に梯子が掛かっています。道路沿いの家々は庇を伸ばして通路を確保しています。雁木通りというのですね。積雪期ではないけど、初めて通りました。
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向かった先は高橋孫左衛門商店(飴店)です。江戸時代より約390年続くあめやで、国の登録有形文化財に指定されており、十辺舎一九も「越後道中記・金の草鞋」の中で粟飴や当時の店の様子を紹介しているとのことです。ゆかりを書いたものがウィンドウに有りましたが、撮った写真が小さすぎました。読めません。熟成飴・翁飴など土産に買いました。
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この日の宿は赤倉温泉・赤倉ホテルでした。

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