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2013年8月の投稿

2013年8月24日 (土)

奥の細道を訪ねて第13回 越後路を通り出雲崎へ(2日目)

二日目の朝、朝食前の散歩に出かけるときに気が付きました。デジカメに充電するのを忘れていました。しかたなくカメラを持たずに出かけました。フロントで散策地図を頂いて岩室神社に行きました。帰る途中同じツアーの方たちと会い、良寛歌碑が近くにあるらしいけど見つからなかったとのこと。私たちは歌碑があることも知りませんでした。

8時15分にホテルを出発。10分足らずで、宝光院に着きました。本尊の大日如来像は一部に廃仏毀釈の際の手斧の痕が残っているとのことです。
宝光院
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本堂の裏手にある樹齢1000年以上の婆杉。
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境内の芭蕉句碑「荒海や佐渡によこたふ天の河」
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西生寺(さいしょうじ)
本堂・客殿・庫裡・弘智堂・宝物堂・金毘羅堂など備え、弘智堂には弘智法印の日本最古(鎌倉時代)の即身仏が安置されています。曾良の日記にこの即身仏のことが記されており、芭蕉も参拝しました。当時は西生寺東方の養智院に安置されていたようです。

西生寺宝物堂
・等身大の、弘智法印即身仏「身替わりの木像」と御遺品
・即身仏の学術調査が行われた時に撮影されたレントゲン写真
・槍奴の首級(豊臣秀吉の時代、「死んでいるのに座っているのはキツネかタヌキが化けているに違いない」と槍で即身仏を突いた者がおり、その者は、後に真の仏を突いてしまったと自害した。その者の遺言により「懺悔の首」として長く即身仏のそばにおかれた、その頭蓋)
・良寛の長歌と書、加藤清正の書翰、等々多数展示されています。
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弘智法印霊堂
弘智法印即身仏が安置されています。槍で突かれたあと、少し前屈みになられたとのこと。
住職様がお留守なので、長老様のお話の後、拝観させて頂き、そのお姿に感動し、胸が熱くなりました。
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御遺告です。(解説版の一部抜粋)
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弘智堂を向いて建つ弘智法印立像。修行の御姿で、高さは5.5メートルもあるとのこと。
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足腰が非常に丈夫な方だったそうで、その足元に健脚祈願の水掛草鞋がありました。
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芭蕉参詣の碑として、「文月やからさけおがむのずみ山」の句碑がありました。この句をネットで検索したのですが、「芭蕉全句鑑賞索引」の中に有りませんでしたもしかして曾良の...? ) 。もちろん、「おくのほそ道」で詠んだ句ではありません。
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親鸞上人ゆかりの銀杏(親鸞上人の御杖木)
樹齢800年。親鸞上人が西生寺を訪れた際に、信者が差出した杖がわりの銀杏の枝を、別れを惜しむ信者の為に「吾れの身替わりに」と地中に突きさされたものが根付き、大銀杏になったと伝えられている。ちなみに雄木なので実はならないそうです。
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本堂(阿弥陀堂)
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駐車場の先に展望台があり、佐渡ヶ島を見ることが出来るとのことですが、残念。見えません。
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日蓮聖人の遺跡
佐渡へ赴く日蓮上人が船待ちをしたという祖師堂近くに湧く井戸水(祖師堂へは行きませんでした)。
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日蓮聖人硯水の霊井(長岡市寺泊町)
弟子の宮本常忍に宛てた「寺泊御書」を書いた時の筆を染めた硯水がこの井戸の水であったとのこと。井戸は今も涸れることなく、この御堂の中に保存されています。
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佐渡に向かって獅子吼(ししく)する日蓮聖人の銅像。獅子吼(仏の説法。獅子がほえて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道を恐れ従わせるところからいう。)
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なぜか芭蕉句碑も建っていますが、隅っこの木の陰で、道路の方の向いているので、道路に出ないとよく見えません。これは句碑の裏側です。
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道路から撮影。この句は二見浦の夫婦岩を描いた絵の画賛で、句意は、岩に砕ける潮の花の絵柄はそのまま二見が浦の爛漫の春の景色だということを疑ってはならない。ということだそうです。Photo_3
寺泊で昼食&買物の後は良寛の生誕地(橘屋跡)へ向かいました。
説明版によると、良寛は出雲崎町名主、山本以南の長男として生まれ、元の屋敷は現在地の約二倍の広さがあり、ここは幕府のお触れを掲げた御高札場だったとのこと。背後は日本海。
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良寛堂 
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堂内には良寛持仏の石地蔵をはめ込んだ石塔を安置し、良寛の歌(いにしへにかはらぬものはありそみとむかいひにみゆる佐渡のしまなり)が刻まれていました。ありそみ は富山湾の有磯海でしょうか?
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良寛堂の裏、日本海に面した良寛像です。
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このあとは出雲崎宿(妻入りの街)の散策です。
芭蕉は出雲崎の旅人宿大崎屋に一泊しました。その大崎屋は今は民家になっており何もありませんが、以前は説明版があったようで、「ここに間違いない」と先生が案内してくださいました。芭蕉園の説明版には、出雲崎に着いた夜、海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた芭蕉は、天下の名吟「荒海や佐渡によこたふ天河」の霊感を得たのである。と記されています。
大崎屋跡
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歩いてすぐ先にある芭蕉園。芭蕉像、天河句碑、東屋などがあります。
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天河句碑(芭蕉の俳文「銀河の序」を刻んだ石碑)
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妙福寺
俳諧伝灯塚があります。小高いところで、石段は何段あったのかしら?
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俳諧伝灯塚
芭蕉と芭門二世の東華坊(支考)と三世の蘆元坊がこの地で詠んだ句が刻まれています。
  五月雨の夕日や見せて出雲崎 東華坊
  荒海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉翁
  雲に波の花やさそうて出雲崎 蘆元坊
新旧二基並んで建っています。大きい方が新しく、大正年間に建てたものだそうです。
真中が芭蕉の句
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山門からの眺め
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厳しい残暑の中、皆、汗を拭き拭き歩きました。途中、妻入り会館で一休み。お話を聞きながら無料サービスの麦茶を頂きました。美味しかった。妻入りとは、切り妻様式の屋根で、建物の短辺側あるいは大棟と直角面に玄関がある三角屋根の住宅のことだそうです。
妻入り会館
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妻入りの街を歩くと所々に「出雲崎よもやま話」が掲げられています。出雲崎代官所の移転についてのお話、廻船問屋 熊木屋跡、餌にまつわる話等々、史実や伝説で、興味はあるけど読んでいては仲間とはぐれてしまいます。カメラに収めました。その他、「御用小路(金銀小路)」「良寛剃髪の寺」「堀部安兵衛の住居跡」「代官所跡」等があり、佐渡からの金銀荷揚げ港として栄えた歴史を感じる街でした。
獄門跡
処刑人の霊を慰めるためのお地蔵様と供養塔があります。良寛さんは名主見習いの時、首切りの立会が嫌で出家をしたと言われているとのことです。
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  石熱る 獄門跡の 秋暑し   蘖

暑いけど、バスが待っている場所までもう少し頑張って歩かないと...
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道端に良寛さんの言葉の碑がありました。
錫(しゃく)を振って 親故に別れ 手を挙げて 城闉(じょういん)に謝す。
納衣(のうい) 聊か破れを補ひ 一鉢 知る 幾春ぞ。
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バスで10分足らず、椎谷観音堂の山門です。観音堂まで石段330段との看板がありました。山門前の芭蕉句碑が目当てなので、お参りはしません。山門までの石段も上る元気なし。
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芭蕉句碑「草臥れて宿かるころや藤の花」
おくのほそ道の行脚に出る前年、大和行脚での吟。
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出雲崎から柏崎に着いた芭蕉は、象潟で会った宮部弥三郎の紹介状を持って、天野弥惣兵衛方に一夜の宿を請うたが、にべもなく断られ、更に約4里(16km)もある鉢崎(はっさき)まで雨の中を歩き、たわら屋に泊まりました。天屋は断った後、2度も宿の使いを走らせ、引き止めたが、芭蕉は戻りませんでした。
天屋跡
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天屋に断られた芭蕉が一気に歩いた旧街道(北国街道米山三里)のなごりのある道を歩きました。下って登って、歩き難い道でしたが見晴らしは良かった。途中に無人駅のJR青梅川駅がありました(一番下の写真)。
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蓮光院(鉢崎はっさき地蔵尊)
江戸時代中期、この地から2km西の海岸に大小数十体の石像地蔵尊が祀られていた。北国街道が海沿いを通り、冬の高波には命がけで往来するというところだった。その通行安全を願い沢山の地蔵尊が祀られていたが、明治29年、信越本線敷設の折、この地蔵尊が法線にかかるに及んで、岩に刻まれた御本尊の移設は出来なかった。やむなくダイナマイトで爆破したところ、御本尊は粉々に飛び散り海に沈んだ。その直後から工事中に事故が多発し、工事は中断した。仏罰なりと、散逸した仏体を拾い集め、新たにお堂を建てて安置したところ、工事は順調に進み始めた。とのことです。
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鉢崎関所跡
越後頸城地方の三関(関川・鉢崎・市振)として重要な役割を果たしていた。最も取締りが厳しかったのは、女子と鉄砲に対してであった(出女入鉄砲)。これは各藩主の妻室を江戸に住まわせ、人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒したためであり、また、江戸へ鉄砲を持って入ることが治安上危険と考えたためである。当時の覚書によると、木戸が開くのは午前6時、閉まるのは午後6時、夜間の通行は一切禁止であったが、飛脚などの通るときは委細を改めて(理由を聞いて)通行を許したとのことです。
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たわら屋跡
天屋に泊まらなかった芭蕉が辿り着いた場所です。代々庄屋で、宿屋を業としていた。椎谷(現・柏崎市)に馬市があり、たわら屋は馬宿でもあったそうです。
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帰りはまた長岡から新幹線でした。この日はほんとに暑く、汗をかいては水分、水分を取っては汗となり、私にしては、山歩き以外で、こんなに汗をかいたことは無かったような気がして...長岡駅で1時間ほどの待ち時間があり、皆さんは何か食べに行ったり、買物に行ったりしましたが、私は疲れてしまって、食べ物見ると気持ち悪くなりそうで、駅構内の良寛さんの傍で荷物番をしていました。友人たちは、中華のあんかけ麺を食べてきたそうで、行かなくて良かったと思いました。

長岡駅 良寛さんの像
すみれを手に持つ良寛像は、托鉢の途中、野に咲くすみれを摘むのに夢中になって、大切な鉢の子(応量器 おうりょうき)を忘れたほほえましい逸話にもとづいています。(傍らの解説版より)
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2013年8月18日 (日)

奥の細道を訪ねて第13回 越後路を通り出雲崎へ(1日目)

芭蕉の足跡を訪ねるツアー、13回目は新潟へ1泊2日(8月9日~10日)の旅でした。1日目は新幹線長岡駅で下車し、新潟市古町にある船江大神宮に向かいました。
船江大神宮は「延喜式」にも記載がある古社で、明治になって新潟総鎮守となったそうです。
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ここに芭蕉ゆかりの浮身塚(芭蕉句碑)があります。新潟に到着した芭蕉が、紹介されていた有力者にの家に泊まれず、さらに先の大江源七宅でもてなしを受けたときに詠んだと言われる句です。
浮身塚
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芭蕉句碑
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船江大神宮の近く、宗現寺には芭蕉の蓑塚(古くなった蓑を納めた)があります。
本堂
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本堂前、向かって右側にある蓑塚。善導寺より移されてきたとのことです。「芭蕉翁蓑塚」と刻まれています。
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昼食後は護国神社に参拝しました。戊辰戦争の戦没者を祀って招魂社としたのが起こりで、後に新潟県護国神社と改め戊辰戦争から第二次世界大戦までの県出身の戦死者七万五千余柱が合祀されているそうです。(ツアー配布の資料)
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戊辰戦争 戦死者の霊苑
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鳥居脇にある芭蕉堂と、ここにも蓑塚が・・・
芭蕉堂の正面には「芭蕉」と大きく、赤く、個性的な文字が刻まれており、私の思っていたイメージと違ったのか?写真に撮ってませんでした。吉原芳仙という方が私財を投じて建てたものだそうです。中に芭蕉の肖像画と由来書もあるそうですが、コンクリートで固められており、入ることはできません。正面脇に由来が刻まれていました。ここが入口だったのかしら?気が付けば左下に、碑文を読んでいるような小さな小さな芭蕉さんが立っていました。
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この芭蕉堂は「降雨庵」とも呼ばれていたようです。側面の壁には芭蕉の句が刻まれていました。右が芭蕉の句「海に降る雨や恋しきうきみ宿」
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蓑塚
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佐潟湖と芭蕉句碑
佐潟湖(新潟市赤塚)は日本でも珍しい砂丘湖(砂丘の窪みに雨などが溜まって出来た湖)
だそうです。先月の瓢湖と同じように、蓮が湖面を覆っていました。
湖の脇、北国街道に面して三基の句碑が並んでいます。真中が芭蕉の句碑でした。「あかあかと 日はつれなくも秋の風」。逆光で、碑文は撮れませんでした。
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北国街道 松野尾にも芭蕉句碑が建っています。「涼しさやすぐに野松の枝のなり」。(この庭の松は野松をそのまま移しかえた趣で、人工を凝らさぬ自然のままの伸びやかな枝ぶりが、いかにも野趣に満ちて涼しげだ)句意は調べてやっと分かりました。おくのほそ道で詠まれた句ではありません。
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道を挟んだ向かい側には「右やひこ」の道標が建っています。これは、北国街道を歩いて弥彦へ行く(弥彦神社に参詣する人)のために建てられたそうです。
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北国街道 弘法の清水
1200年の昔、諸国を巡行中の弘法大師さまがこの竹野町部落を訪れた年は大旱魃であったが、お大師さまは、農民の親切な心遣いに感謝し、且つ、将来の水不足に備えるため、この地に錫杖を立てて水源を掘り当てられたということです。以後1200年の間清水はこんこんとして湧き続け、人の心と身を癒している。と説明版に書かれていました。
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道の両側に柿畑が広がり、午後の日差しが眩しく暑く、帽子と日傘、腕もしっかりカバーして北国街道の散策です。この越後路、「おくのほそ道」での記載はごく僅かです。前回とだぶりますが、本文
『酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道(ほくろくだう)の雲に望む。遙々(えうえう)のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで、百三十里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国、一ぶりの関に至る。この間、九日、暑湿の労に、神(しん)をなやまし、病おこりて、事をしるさず。
  文月や六日も常の夜には似ず
  荒海や佐渡によこたふ天の河  』

NHK講座テキストのよると、旅中の病のことはフィクションである可能性が高く、やはり、この間の越後路には歌枕・名所が少なく、それほど筆を費やすべき事柄がなかったからだとみてよいでしょう。とのこと。
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北国街道 ごりん石
ここ竹野町にある角田登山路をほんの少し入ると、路際の左の山に芭蕉句碑「涼しさやすぐに野松の枝のなり」がありました。案内板によると、この附近を土地の人は「ごりん石」と呼び、高さ2メートルの自然石に「道下の大松」になぞらえて、芭蕉の句を刻んだとのこと。
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北国街道 平沢清水
説明版より
景観を整えるのに当り、石器時代のものと思われる石斧の様なものが出てきたので縄文時代頃には、人間がこの清水を使っていたものと思われる。歴史に記されている中で、平の景清が、源氏に破れ、九州に落ちのび、部下の高梨の景門に命じ、守り本尊の千手観音を、生まれ故郷の羽後平沢(秋田県)に祀る様に頼んだ。景門がこの地に着いた時、愛馬が倒れ、、何かのゆかりやら、この地も同じ平沢と聞くと、愛馬を葬って一本の﨔の木を植えて、一庵を建て、守り本尊を祀った。その﨔は現在七人で抱えなければならない大木になっている。芭蕉、良寛など、文人・墨客の多くがこの清水を飲んで、疲れを癒したことだろう。
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芭蕉が通った時はどのような景色だったのか?遠く、雲に少し隠れているのは弥彦山でしょうか?
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北国街道 茶塚地蔵
説明版より
茶塚という小山にある子育ての地蔵様。街道の往来が激しかった江戸時代この茶塚は三根山藩の曝場で、罪人を稲場で処刑(打首)し、その首を三・四日間道端の曝し台に上げて見せしめにしたという。
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散策はここまで、後はバスで弥彦神社に向かいました。

曾良の日記に芭蕉が参拝したと記されいる弥彦神社。延喜式にも名を残す古社です。Photo_21
旧本殿址
説明版により
明治45年3月、門前から起った大火で、類焼してついにこの地点にあった本殿まで燃えてしまった。再建に当たり、本殿は現在地に移し、その旧地に元本殿の礎石をすえて記念とした。
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境内にある末社  (2枚目の写真が十柱神社)
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駐車場のところから弥彦山への登山道がありました。弥彦山の標高は634メートル、スカイツリーと同じ高さで、ロープウェイまでの無料送迎バスが出ていました。
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登山道の脇に姥百合が咲いていました。
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この日の宿は岩室温泉「富士屋」です。ロビーの無料サービスで冷たい甘酒が美味しかった。甘酒って寒い時によく飲みますが、俳句では夏の季語になります。一夜のうちに熟成するところから、一夜酒(ひとよざけ)ともいいます。
   一夜酒夜噺はずむロビーかな  蘖






























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