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2013年7月の投稿

2013年7月28日 (日)

奥の細道を訪ねて第12回 (3日目)瀬波温泉・村上散策~水原八幡宮

7月9日、3日目の朝です。4時には目覚めてしまい、外は未だ暗い。7階の展望露店風呂、朝の一人占めを楽しんで、1時間後、明るくなりました。
部屋の窓から、4時頃(上半分)、5時過ぎ(下半分)
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昨夜、ロビーの無料コーヒーサービスにご一緒させて頂いた方4人と、朝、海の方への散歩を5時50分(居なかったら寝てると思って)にロビーで待ち合わせしました。
 ホテルの裏手の坂を登ると、瀬波温泉の源泉櫓(温泉卵ができる)と、伊夜日子神社があります。前日に時間があったのに、何となく部屋でゆっくりしてしまい、行きませんでした。というか、気が付かなかった。
 朝になって、前日に配布された瀬波温泉案内図を見て、せっかく温泉に来たのにと思い、待ち合わせまで25分足らずでしたが、急いで行くことにしました。登り口が分からずウロウロとロスタイム。草刈りの方に聞いたら上まで10分ぐらいかな?って。急いで登っていくと、源泉櫓が轟々と音をたてており、左右に分かれた石段の其々に鳥居がありました。左が伊夜日子神社、真直ぐに続くのが奥の院でした。
源泉櫓
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伊夜日子神社と奥の院の鳥居
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伊夜日子神社
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奥の院へ続く石段
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やっと来ました奥の院。先ず、お参りをして、龍神の鐘3つ、澄んだ音色を朝の空に響かせました。説明版によると、鐘を鳴らした人は幸せになれるとか・・・ でも、龍神様は気まぐれだから、あまり信じないでください。ですって、でも、私、信じよう~と。
竜神の鐘
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ここからの展望
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あそこで温泉卵ができるんだ。とにかく、急いで戻らないと一緒に散歩できないわ。
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お参りはしたけど、奥の院の写真は撮り忘れました。
ホテルに戻ったら、昨夜の方達が、玄関を出てきたところでした。(^_^;)

海岸まで、汗を拭き拭き、ついて行きました。村上の鮭は美味しいとのこと。旅館などの軒に見かけます。
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海岸です。広々とした開放感があり、風が気持ち良かった。
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渚に、模様の綺麗な小石を拾う方もいました。
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道路の両側には、所々に与謝野晶子の歌を貼った柱があり、足湯もありました。
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ホテルの脇にあるこれ、腰かけの下を温泉が流れているとのことで、お尻がぽかぽかします。色々と詳しく案内してくださった方、有難うございました。
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3日目は村上の散策からです。芭蕉は村上に2泊しました。曾良のゆかりの方がいたとか・・・

 
石船神社(いわふねじんじゃ)
大化4年(648)の創建と伝えられる古社で、産土神として信仰を集めてきたそうです。芭蕉句碑、2基あり。
参道
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社殿
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招魂社 (明治維新前後から国家のために殉職した人の霊を祀る神社)
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赤い鳥居の前に建つ芭蕉句碑。江戸の鈴木清風の屋敷で詠まれた句で本文に記載は有りません。
 花咲きて七日鶴見る麓哉
 
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白い鳥居を上った招魂社の前に建つ芭蕉句碑。越後(直江津)で詠んだ句。このツアーでは次回になりますが、「おくのほそ道」本文に記載された句です。
 文月や六日も常の夜には似ず
  (もう初秋7月の季節となり、明日の夜は、牽牛・織女が一年に一度逢引きするという七夕を迎えることになった。その七夕の伝説のことを思うと、今宵六日の夜も、ふだんの夜とは異なり、どことなく華やいだ気分である。  NHK講座テキストより)
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境内に咲いていた合歓の花
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村上で芭蕉が2泊した井筒屋(旧旅籠屋)
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安善寺のあるこの周辺、黒い塀で囲まれています。これは黒塀プロジェクトといって、城下町らしい昔ながらの景観に戻そうという運動で、「黒塀一枚千円運動」で寄付を集め、ブロック塀の上に板を張ってペンキを塗る工法で、お年寄りから子供までが汗を流したそうです。現在340mに達しているそうです。
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安善寺 鐘楼門
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淨念寺 説明版によると、村上城主本多家、榊原家、間部家の菩提寺で、芭蕉と曾良が参詣した当時は泰叟寺と云い、白壁土蔵造りの本堂が国の文化財とのこと。
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淨念寺の額紫陽花
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鮭の喜っ川
築130年の町屋(登録有形文化財)で、天井からの梁からたくさんの吊り下げられた鮭を見ながら説明を聞きました。鮭は戻ってくる間に顔つきが変わるとか、楽しいお話でした。塩引きは荒塩を引いて4~5日漬けたあと真水で洗い、冷たい風に当てながら3週間ほど発酵させたもの。、酒びたしは塩引き鮭を1年がかりで乾燥発酵させたもの。だそうです。
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おしゃぎり会館
おしゃぎりとは山車のことで、1階にはおしゃぎり、2階には歴史資料など展示されています。
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ここで若林家住宅、まいづる公園(皇太子殿下・雅子妃殿下の御成婚を記念した公園で、旧嵩岡家住宅・旧岩間家住宅など)、旧武家屋敷への地図をもらい自由見学です。私にはあまり興味がない場所を4人で回り、時間を過ごしました。我が家に帰ってから写真の整理をしていて発見!おしゃぎり会館へ来る途中、街角で撮った村上散策地図に芭蕉句碑の文字。まいずる公園の少し先の稲荷神社です。分かっていたら、行ったのに。なぜ?このツアーでは行かなかったのかしら?
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光徳寺
村上藩主の菩提寺で、城下町の中で唯一村上城内に建てられた寺院とのこと。芭蕉も参詣したようです。郷土史の学習で書いたのかな?
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住職さんの説明を聞き、藩主のお墓をお参りしました。
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乙宝寺
新潟県胎内市乙(きのと)にあり、芭蕉も訪れた、新潟屈指の古刹です。ここでも、住職さんのお話がありました。寺にまつわる伝説や逸話も多く残されています。開山した二僧の一人がお釈迦様の左目を納めて乙寺と名付け、後白河天皇がこれを納める金塔を寄進したので乙宝寺となった。お釈迦様の左目、拝ませていただきました。
仁王門
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境内
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芭蕉句碑 うらやまし浮世の北の山桜
芭蕉の門人、金沢の句空が「北の山」を編纂する際に序文を芭蕉に依頼したが、芭蕉はこれを辞退して、代わりにこの句を贈ったそうです。元禄5年1月、おくのほそ道の旅から2年余りのちのことです。
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大日堂
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三重塔
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六角堂
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この寺にある伝説
1000年ほど昔のことです。毎日、法華経を読んでいると、ある日、二匹の猿が庭に来てお経を聞いている。それから毎日毎日聞きに来る。ある日、猿が木の皮を持って来て、お経を書いて欲しいという様子なので、法華経を写してやると、猿は、山の幸を持って来るようになった。が、ある日ふと来なくなった。心配して山を見に行くと、二匹とも半身を地中に埋もれて死んでいた。気の毒に思い供養したやった。そのから40年ほど経った時、身分の高い夫婦が訪れて、自分たちはその時の猿で、法華経に菩提心を起こし、法華経を書いてもらったために人間になった。というお話です。
 そうそう、そのお経の書かれた木の皮「木皮経」も残されおり、拝見させていただきました。
二匹の猿を供養した墓
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水原八幡宮
新潟県阿賀野市、瓢湖に面して建っています。
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ここにある金子兜太さんの句碑
 霧に白鳥白鳥に霧というべきか
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瓢湖
白鳥の飛来地。行ってみたいと思っていましたが今は真夏。どうかな?と思っていたら、夏の瓢湖は一面の緑、余すところなく蓮でした。まだ咲き始めかしら?
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最後のここは、旅行会社の都合(時間調整)かしら?でも、夏の瓢湖を知ることができました。

次回13回目は1泊2日で、新潟市・柏崎市など、岩室温泉泊です。

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2013年7月25日 (木)

奥の細道を訪ねて第12回 (2日目)象潟~瀬波温泉

7月8日、2日目は象潟(きさがた)の散策から。象潟は「おくのほそ道」の中でも、松嶋と並ぶ重要な章段で、私もいつかは行ってみたいと思っていた場所であり、楽しみにしていました。
本文『江山水陸の風光、数を尽くして、今、象潟に方寸を責む。酒田の湊より、東北の方、山を越え、磯をつたひ、いさごを踏みて、其の際十里、日影、やゝかたぶく比(ころ)汐風、真砂を吹き上げ、雨、朦朧として、鳥海の山かくる。闇中(あんちゅう)に模索して、「雨も又奇なり」とせば、雨後の晴色(せいしょく)又頼母敷(たのもしき)と蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るゝを待つ。
其の朝(あした)、天能(よ)く晴れて、朝日花やかに指し出づる程に、象潟に船をうかぶ。先づ、能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかうの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし、桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(かうしやう)に御陵(みささぎ)あり。神功后宮の御墓(みはか)と云ふ。寺を、干満珠寺(かんまんじゅじ)と云ふ。この処に行幸(みゆき)ありし事、いまだきかず。いかなる故ある事にや。
  此の寺の方丈に坐して、簾を捲けば、風景、一眼の中(うち)に尽きて、南に、鳥海、天をさゝへ、其の陰うつりて江に有り。西は、むやむやの関路(せきぢ)をかぎり、東に、堤を築きて、秋田にかよふ道遥かに、海北(うみきた)にかまへて、波打ち入るゝ処を、汐ごしと云ふ。江の縦横、一里ばかり、俤松嶋にかよひて、又異なり。松嶋は、わらふがごとく、象潟は、うらむがごとし。さびしさに、かなしびをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。
  象潟や雨に西施がねぶの花。
  汐越(しほごし)や鶴はぎぬれて海涼し
    祭礼
  象潟や料理何くふ神祭          曾良  
  蜑(あま)の家(や)や戸板を敷きて夕すゞみ
                美濃国の商人 低耳
    岩上(がんしやう)に雎鳩(みさご)の巣を見る
  波こえぬ契ありてやみさごの巣     曾良 』


先ず蚶満寺に向かいました。
参道に建つ芭蕉像と句碑
「象潟西施がねふの花」。よく見ると、切れ字「や」の位置が違います。これは発案の句だそうです。西施像の説明版の方は本文と同じ「象潟・・・」となっています。
(象潟は雨に朦朧とうちけぶっており、その中から美女西施が目を閉じて悩んでいる面影が浮かび上がってくるような趣きがあるが、それは雨に濡れそぼった合歓(ねむ)の花の姿でもあった。  NHK講座テキストより)
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向かい側に建つ西施像
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『象潟は、うらむがごとし。さびしさに、かなしびをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。』
芭蕉の句をイメージしたような西施の絵を刻んだ石碑もありました。
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蚶満寺の名は、古くはこの辺りを蚶方(きさかた)と書き、蚶方寺であったが、いつしか蚶万寺と読み間違え、文字を改めて蚶満寺としたといわれているそうです。芭蕉の本文では、干満珠寺となってますね。
蚶満寺山門
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山門前から見た象潟の景色
説明版によると、象潟は2500年ほど前、鳥海山が噴火により大きく崩れ、岩なだれが発生し、海に流れ込んだ岩の固まり(流れ山)は多くの島々となり、島々をかこむように砂嘴が発達し、一帯は入り江となった。島々には松樹が茂り、水面に鳥海山を映し、松嶋と並ぶ景勝地となった。しかし、1804年6月の大地震でこの地域は隆起して陸地となり、潟は一変して現在の稲田となった。火山活動および地震による土地の変化を示す自然記録としての価値が高いので、国の天然記念物に指定されています。
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『むかうの岸に舟をあがれば』とあるのはここ象潟嶋の蚶満寺で、境内に船つなぎ石がありました。
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『「花の上こぐ」とよまれし、桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。』
船つなぎ石の先に「西行法師の歌桜」と表示された桜の木がありました。が、老木ではない、ただの桜の木です。桜の木の下に象潟嶋と刻まれた石柱がありました。
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境内にも芭蕉句碑があり、こちらも「象潟の雨や・・・・・」と刻まれています。
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句碑の背後にある出世稲荷堂
俳句が上達しますようにとお参りしました。が、努力もしてないし、叶いませんね。
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稲荷堂の前に立つ木の股にはPhoto_12
境内の一番奥にこんなものが...百人一首「奥山に紅葉踏み分けなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき」、この有名な歌の作者が、三十六歌仙の一人、生没年不詳の猿丸太夫です。
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親鸞聖人の御腰石とかもありました。
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境内には北条時頼お手植えの躑躅、夜泣きの椿、このて柏、その他いろいろな樹木がありました。残念、ここに写っていません
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象潟の全景を見られるとのことで、道の駅 象潟の屋上に上りました。開店の9時にはすこし間があったので、じゃんけんで芭蕉を決めて顔出しパネル。
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屋上からの眺めは一枚の写真に撮れません。降ってはいませんが天気が良くない、きれいに撮れません。鳥海山も見えません。
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文化元年(1804)の大地震による陸化以前の象潟の景色を余すところなくとらえた絹本着色象潟図屏風の写真と説明が展示されていました。その一部分です。はっきりしませんが、海に浮かぶ島々の様子がわかります。白い山は鳥海山です。
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象潟の景色(東方向)の反対側に回ると、広い海の景色(西方向)に変わります。
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北方向を見ると、ここが入り江だったと分かります。
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象潟駅前に芭蕉文学碑があります。碑文は蚶満寺所蔵の芭蕉筆「象潟自詠懐紙」を拡大して刻んだもの。と説明版にありました。もう雨が降出して、写真も撮りにくいです。
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碑文
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吹浦を立った芭蕉は、三崎峠を越えて象潟につき、船小屋に雨宿ります。私たちも雨の象潟散策となりました。道路際に芭蕉滞在中の行動を描いたパネルがありました。
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芭蕉は象潟で2泊します。着いた日は能登屋へ泊るつもりが、熊野権現の祭りで女客があったので向屋に1泊し、翌日は能登屋に泊まりました。名主の今野又左衛門と実弟の嘉兵衛が歓待したとの説明版を読み、裾を捲って傘さして、其々の宿泊跡を見て歩きました。
象潟橋(欄干橋)
かつて、この橋から眺める九十九島と鳥海山は「象潟八景」の一つと言われ、橋のたもとに立つ道しるべの石柱は、綱をかけて船を停めるのに利用したので、船つなぎ石と言われるようになった。芭蕉と曾良もここから舟に乗って島めぐりをしたとのこと。石柱には左右往還と刻まれています。
『其の朝(あした)、天能(よ)く晴れて、朝日花やかに指し出づる程に、象潟に船をうかぶ。』
其の明日とは6月17日、現在の8月2日です。
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『先づ、能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ・・・』
九十九島の一つ能因島は芭蕉が敬愛する能因法師が三年間篭った場所です。めぐり島とも呼ばれていたようで、いつから能因島と呼ばれるようになったかはっきりしないようです。島にあるのは淨專寺一世の墓との説明版が立っています。芭蕉はここから舟で蚶満寺に渡ったのですね。私たちはこの日も芭蕉の行動とは前後しています。
能因島
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芭蕉は象潟の最後に蚶満寺を訪れ、翌朝、また酒田へと戻るので、この象潟が、「おくのほそ道」最北の地でした。

芭蕉が象潟に来るときに越えてきた三崎峠(三崎公園)
私たちも少し歩く予定でしたが、能因島辺りから雨が激しくなり(前線通過中かな)歩ける状態ではなく、バスから降りることもできず、窓越しに入口や案内板を見るだけとなりました。案内板には、酒田を立った芭蕉は激しい雨にあい、やむなく吹浦で1泊し、翌日も雨の中、昔、有耶無耶の関があったというこの難所を越えた。酒田に戻るため二日後にもこの峠を越えたが、この時の天気は快晴、鳥海山が美しい姿を見せ、海風が快い日だったと記されていました。
私はまたいつか、この三崎峠を訪れることがあるかしら?
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この後、鶴岡に行き昼食。メニューは替えますが、昼食会場は前日と同じ場所でした。

『酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道(ほくろくだう)の雲に望む。遙々(えうえう)のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで、百三十里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国、一ぶりの関に至る。』
昼食後は笠取峠です。
笠取峠は、「新おくのほそ道」の遊歩道として、現存しています。このツアーも笠取峠を全コースをハイキングするはずでしたが、残念なことに、昨年の大雨で土砂崩れがあり、通行できず、復旧の見通しもないとのこと。三崎峠(三崎公園)はその替りでした。先ほどの雨は上がっていたのが幸い、笠取峠は入口から少し登った場所まで歩きました。そこから、笠取峠(旧国道)と現国道が、断崖の上と下に分かれている様子を一目に見渡すことができました。鰺が崎の稜線に笠取峠の東屋が見え、その向こう側に回って下るのだそうです。歩きたかったなぁ・・・
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温海町に、俵を積み重ねたように見える、塩俵岩、といのがあり、その東端に芭蕉句碑(あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ)が建っています。芭蕉は岐阜の商人であり、俳号を低耳という門人の添状で、温海村の鈴木所左エ門宅に宿泊しました。その所左エ門の子孫にあたる鈴木礼子さんが除幕の紐をひいたとのこと。この温海から芭蕉と曾良は初めて別行動をとり、芭蕉は海岸線を越後へ、曾良は湯温海の方へと別れたそうです。
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熊野神社
温海温泉の熊野神社の石段の左脇に芭蕉供養碑があります。また右にはバラ園がありました。
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曾良と別れた芭蕉が一人で通った鼠ヶ関(ねずがせき)は、白河関・勿来関と共に東北三大古関の一つ。義経・弁慶の勧進帳の舞台ともいわれ、江戸時代は、鼠ヶ関御番所と呼ばれ、鼠の定印を用いたそうです。こちらは近世念珠関址
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念珠松庭園
樹齢400年という見事な黒松に驚きました。全長20mもあり、7m程が地を這い、ほかに類を見ない臥龍型の松で、400年ぐらい前に旅館(昭和35年に廃業)をしていた方が、盆栽の松を庭に地植えし、代々庭師に手入れさせて、大事に育てた松だそうで、この松を鑑賞するために造られた公園です。
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私にはどうもよく分からない。鼠ヶ関跡と念珠関跡。鼠ヶ関は数回移転しているそうで、そのために同じような説明で、違った場所にあるのでしょう。こちらは鼠ヶ関駅近くにあり、「古代鼠ヶ関址及び同関戸生産遺跡」と石柱に刻まれています。石柱と説明版だけの扇型の空き地です。
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この目と鼻の先に県境の石柱が立っています。足型に自分の足を乗せて、自分で写真を撮ったら、真似する方もおり、次は入れ代わり立ち代わり、お互いにカメラを渡して写真を撮ってもらいました。
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村上市にある北中芭蕉公園。平成元年が芭蕉のおくのほそ道の旅から300年になるので、北中集落の有志の方々が、旧出羽街道のあった場所に完成させて、芭蕉句碑を建てました。清水が多いこの辺りで詠まれた句ではないかとのこと(おくのほそ道に記載はありません)。ここは中村という宿場があり、芭蕉が宿泊しています。
芭蕉公園は竹林の中の小道をほんの少し歩いた所です。
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芭蕉句碑(さわらねば汲まれぬ月の清水かな)と清水
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この日の私たちの宿は瀬波温泉グランドホテルはぎのや。本館8階、明るい角部屋でした。部屋を出てすぐの非常口から、村上の美しい夕日が見られそうです。まだ高い陽が海に少し映っていました。それを確認して時刻を待ちましたが、海に夕日が沈む頃は残念、雲がかかってしまいました。
部屋の窓から
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三崎公園の散策ができなかったので、ホテルに早く着いたのですね。

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2013年7月22日 (月)

奥の細道を訪ねて第12回 (1日目)鶴岡&羅漢岩(吹浦)

『羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行(ながやまうぢぢゆかう)と云ふ、ものゝふの家にむかへられて、俳諧一巻有り。左吉も、共に送りぬ。船に乗りて、酒田のみなとに下る。』
芭蕉は羽黒~鶴岡~酒田と歩きました。私たちは前回が羽黒・酒田で、今回、7月7日は鶴岡と順序が前後しました。

致道博物館
鶴ヶ岡城三の丸跡地であり、藩主の御用屋敷がありました。現在は藩主の隠居所の一部と酒井氏庭園があり、また、近隣の歴史的建造物が移設されています。庄内地方の民具、資料などが展示されています。
酒井氏庭園
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庭園にある芭蕉句碑。長山重行宅の句会で、民田茄子(鶴岡特産の小さな一口茄子)を詠んだ句だそうです。
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移設された建物
田麦俣多層民家(旧渋谷家住宅)
湯殿山麓の村落で、全国でも有数の豪雪地帯であり、養蚕に十分な採光通風の窓「かぶと造り」で、高い天井と高窓が雪国らしい手法とのこと。
御隠殿は藩主の隠居所です。
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ここに咲いていた泰山木の花がきれいでした。
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内川乗船地跡
鶴岡市内を流れる内川にかかる現在の大泉橋の袂にあります。芭蕉はここから酒田に向かいましたが、酒田のどこに上陸したかははっきりしていないようです。が、酒田を散策した時は芭蕉坂があり、日和山公園の下と聞いたように思います。
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長山重行宅跡
内川乗船地跡の近くです(上記に地図)。入口の石碑に「芭蕉滞留の地」と刻まれています。長山重行は酒田藩士で酒井家家臣でした。江戸の在勤中に芭蕉庵を訪ね、入門したそうです。芭蕉は重行宅に3泊しました。ここで詠んだ句「めづらしや山をいで羽の初なすび」の句碑が建っています。
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日枝神社
長山重行宅跡からやや離れた(上記に地図)日枝神社にも芭蕉句碑があります。ここも同じ初なすびの句でした。
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境内に徳川家康の長男信康の霊を祀る復鎮霊社がありました。背後に見えるのは、樹齢300年の大ケヤキ(天然記念物)です。
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羅漢岩
山形県遊佐町、海に面した海岸の岩に彫られた羅漢様です。海禅寺21代目の寛海和尚が日本海の荒波で命を失った漁師諸霊の供養と海上安全を願い、地元の石工たちを指揮し、5年の年月をかけて22体の磨崖仏を完成させたとのことです。道路からではよく分かりませんでしたが、下に降りて傍で見るとかなり大きく、表情にも個性がありました。。
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海岸沿いに進み、道路に出て100m、芭蕉句碑と出羽二見があります。芭蕉の句は「おくのほそ道」酒田の章段にあるので、酒田の不玉亭で詠まれた句でしょうか?
句碑の場所がごみの集積所なのかしら?たくさんの「燃やさないごみ」が積まれており、句碑の写真が撮れません。参加者の男性がごみを退けてくださいました。
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この日の宿はにかほのホテルエクセルキクスイ(ビジネスホテル)。今回も一人参加の個室です。

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2013年7月17日 (水)

奥の細道を訪ねて第11回 (3日目)酒田~湯殿山

3日目、6月23日、酒田の散策からです。
日和山公園の手前、坂の途中に大きな洋風3階建ての建物がありました。ここは映画「おくりびと」のロケ地でした。
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すぐ先にある日枝神社に参拝しました。
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随身門  鳴き天井、私には聞こえませんでした。
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本殿
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酒田港金毘羅神社 芭蕉も参拝しました。皆さんの後を追うのに忙しく、社殿の写真はありません。社殿の脇にあった千石船の錨です。
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本文『羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行(ながやまうぢぢゆかう)と云ふ、ものゝふの家にむかへられて、俳諧一巻有り。左吉も、共に送りぬ。船に乗りて、酒田のみなとに下る。淵庵不玉(えんあんふぎょく)と云ふ、医師(くすし)の許を宿とす。
  あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
  暑き日を海に入れたり最上川   』

ここも本文とは前後して、私たちが鶴岡を訪ねるのは、次回(第12回)になります。酒田の日和山公園下で下船した芭蕉が、不玉宅を訪れるのに通ったであろうと思われる坂道があり、芭蕉坂の標柱がありました。
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日和山公園にある芭蕉句碑
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日和山公園は港に出入りする船頭が日和をながめたことから占晴台とも呼ばれたそうです。歌碑・句碑が沢山あり文学散歩が楽しめますが、灯台や千石船などがあり、港町の公園といった風情です。
日本最古級 木造六角灯台と公園からの眺望
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千石船 日和丸 
原型の2分の1の大きさで、現存する模型では国内最大のもの。出羽の幕府米を酒田港から江戸に回漕するために活躍したそうです。
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旧鐙屋は酒田を代表する廻船問屋でした。本通りの廻船問屋は97軒を数え、鐙屋は7藩の蔵宿を兼ねた豪商で、酒田36人衆の筆頭に数えられていました。?マークの写真、何か分かりますか? 蝿取だそうです。
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屋根には石が敷いてありました。当時、瓦の使用は神社・仏閣・武家などに限られ、商家では、茅・藁など、少し豊かな家で杉が使われましたが、これらの耐火性を向上させるために石を置いたそうです。
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不玉亭跡
伊東不玉は酒田藩の医者で、芭蕉と出会い蕉門に入門しました。「温海山や吹浦かけて夕涼み」芭蕉のこの句はここで詠まれたとのこと。。
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玉志近江屋三郎兵衛宅跡
玉志は俳号です。西の堺、東の酒田と呼ばれ、酒田は東北の生産物を各地に運ぶための重要な港町で、富裕な商人が数多くおり、36人衆と呼ばれていた。近江屋はその中の一人であった。象潟から戻った芭蕉が招かれ、瓜でもてなされた。芭蕉・曾良・玉志・不玉と即興の句会で、瓜の句がなきものは食うてはならぬと発句を求められ、芭蕉は「初真桑四にや断ン輪に切ン」と詠む。おいしそうな初物の真桑瓜だが、さてこれを縦に4つに割ろうか、輪に切って食べようか。との句意だそうです。しかし、これは鐙屋でのことという説もあり、???
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案種亭跡(寺島彦助宅)
俳号は案種亭令道。「暑き日を海に入れたり最上川」はここの句会で詠まれたとのこと。
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本間家旧本亭
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と言われた日本一の大地主。武家屋敷と商家造りが一体となった珍しい建物だそうです。中の見学はしませんでした。
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山居倉庫
明治26年に酒田米穀取引所の付属倉庫として建造されたもので、芭蕉は見ていませんね。築百年以上経ちますが現役の農業倉庫として活躍しています。12棟あり、土蔵造りの屋根は二重構造で内部の湿気防止となり、背後(西側)の欅の大木は日よけ・風よけとなって温度管理に役立っているとのこと。。現在41本残っているそうです。
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本文『八日、月山に登る。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠(ほうくわん)に頭(かしら)を包み、強力(がうりき)と云ふものに道びかれて、雲霧(うんむ)山気(さんき)の中に、氷雪を踏みて、のぼる事八里、更に、日月行道(じつげつぎやうだう)の、雲関(うんくわん)に入るかとあやしまれ、息絶え身こゞえて、頂上に至れば、日没して、月あらはる。笹を舗(し)き、篠を枕として、臥して、明くるを待つ。日出(いで)て、雲消ゆれば、湯殿に下る
谷の傍(かたはら)に、鍛冶小屋と云ふ有り。此の国の鍛冶、霊水を撰(えら)びて、爰に潔斎(けつさい)して、劍(つるぎ)を打ち、終(つひ)に「月山」と銘を切って、世に賞せらる。彼(か)の龍泉(りょうせん)に劍を淬(にら)ぐとかや。干将(かんしやう)・莫耶(ばくや)の、昔をしたふ。道に堪能の、執(しふ)あさからぬ事、しられたり。
岩に腰かけて、しばしやすらふ程に、三尺計(ばかり)なる桜の、つぼみ半(なか)ばひらけるあり。ふり積む雪の下に埋もれて、はるをわすれぬ、遅桜の、花の心わりなし。炎天の梅花爰にかをるがごとし。行尊僧正の歌、爰に思ひ出でて、猶(なほ)哀れも増さりて覚ゆ。惣而(そうじて)、此の山中の微細(みさい)、行者の法式として、他言する事を禁ず。仍(よ)りて、筆をとゞめてしるさず。
坊に帰れば、阿闍梨の求めに仍(よ)りて、三山順礼の句々、短尺に書く。
   涼しさやほの三か月の羽黒山
   雲の峯幾つ崩れて月の山
   語られぬ湯殿にぬらす袂哉
   湯殿山銭ふむ道のなみだかな  曾良    』

本文に鶴岡・酒田の記載はほんの少しでしたが、羽黒山・月山・湯殿山は、かなり力が入ってますね。感銘深かったのでしょう。月山の山開きは7月1日です。私たちは月山には行きません。(このツアーは春スタートですが、秋スタートもこの回は12月?になるらしいので、やはり無理ですね。山登りのツアーでもないし...)芭蕉は山頂で一夜を過し、翌日、月山山頂(1984m)から湯殿山神社(湯殿山1504mの中腹1100m)を往復したあと、また、羽黒山(414m)まで戻ったわけで、すごい!!と思います。

 
湯殿山 仙人沢
まず目に留まるのが赤い大鳥居でした。参籠所・レストハウス・玉垣供養碑・行人塚などがあります。ここから本宮入口までは参拝バス(シャトルバス)になります。
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玉垣供養碑(行人塚)
仙人沢の霊地は即身仏修行の地であり、ここで修業し入寂した行人たちの永代供養のために設けられました。全国で即身仏が24体あるとのことですが、この庄内地方に6体もあるのですね。10年ほど前、羽黒山・月山~湯殿山と縦走した後に、海向寺さんの即身仏を参拝させていただいた時の記憶が鮮明に思い出されました。
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湯殿山参道 シャトルバスを降りて本宮までは歩いて5分ぐらいです。
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湯殿山神社は出羽三山の奥の宮とも呼ばれ、温泉の湧き出る赤茶けた巨岩が御神体で、社殿はありません。履物を脱いで、裸足になって、お祓いを受けてから参拝します。御神体からの温泉の流れる岩を裸足で歩きお参りします。感動です。「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた神秘の神域です。写真撮影禁止!!靴脱ぎ場から月山方向(御祓所とは反対方向)に芭蕉と曾良の句碑がありました。先生にお聞きしたら、こちらは写真を撮ってもいいでしょうとのことでした。

芭蕉句碑(右)」と曾良の句碑(左)
           (句意 NHK講座テキスト参照)
かたられぬ湯殿にぬらす袂かな  芭蕉
(湯殿山神社の神秘を人に語ることは許されないのだが、それだけに、いっそうこの霊場から受ける感銘がひとしおで、ひそかに感涙で袂をぬらすことである)

湯殿山銭ふむ道のなみだかな   曾良
(湯殿山神社に参詣すると、参道には賽銭の銭がたくさん散らばっており、その銭の上を踏んで参拝するにつけても、世俗を超越したこの霊山の尊さに、感動の涙を流すことである)
曾良の句碑は残念ながら拡大しても読み取れませんでした。下の部分は残雪に埋もれていました。 

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雪解け水が流れ、水芭蕉など、とても綺麗だったので、この花も撮っていいですか?って聞いてしまいました。先生が「いいよ」って、でも、上手く撮れない悲しさ...
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参拝の後、何かとても満ち足りたような、清々しいような、気持ちになりました。

参拝バスの終点(奥の宮参道入り口)からの眺望、仙人沢の鳥居がみえます。
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バスの時間待ちをしていたら、歩いてもいいよ。というので、何人かで、仙人沢まで歩きました。20分程の散歩。とても気持ち良かった!
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今回は友人の都合が悪く、10回を数えてからの一人参加なので、心細いかな?と思いましたが、全くの杞憂でした。行きと帰りの新幹線の座席は同じ方と同席。バス座席も3日間通して同じ方(新幹線の方ではない)と同席になり、年齢も私に近く、俳句もなさる素敵な方でした。楽しい旅になって良かった!
次回(第12回)は鶴岡からです。

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2013年7月13日 (土)

奥の細道を訪ねて第11回 (2日目)羽黒山~清川関所跡

2日目、6月22日 休暇村 羽黒の朝、雨が少し降っていましたが、朝食後には止みました。裏庭に夕菅が咲いているというので、見に行きましたが、昨年、上三依水生植物園で見た夕菅とはちょっと違うようです。キスゲでしょうか?咲き始めの1輪で、まだ蕾ばかりでした。
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芭蕉は本合海から船で最上川を下りました。私たちが訪れる順序は本文とは前後して、船下りの前に羽黒山に行きました。バスで山頂まで行き、杉並木の参道を歩いて下山しました。
拡大できます
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本文『五日、権現に詣づ。当山開闢(たうざんかいびゃく)、能除大師(のうぢょだいし)は、いづれの代(よ)の人と云ふ事をしらず。延喜式(えんぎしき)に、「羽州里山(うしゅうさとやま)の神社」と有り。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して、羽黒山と云ふにや。出羽(では)といへるは、「鳥の毛羽(まうう)を此の国の貢物に献(たてまつ)る。」と風土記に侍るとやらん。月山・湯殿を合せて、三山とす。当寺、武江東叡 に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通(ゑんどんゆづう)の法(のり)の燈、かゝげそひて、僧坊、棟をならべ、修験、行法を励まし、霊山・霊地の験効、人貴び、且つ恐る。繁栄、長にして、目出度御山と謂ひつべし。』  
 
 
旧参道
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芭蕉像・芭蕉句碑・天宥社
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芭蕉が南谷の坊で阿闍梨の依頼により短尺に書いた三山巡礼の句碑
 (句意はNHK講座テキスト参照)
涼しさやほの三か月の羽黒山   
 (月が木立を通して見える、この羽黒山にいると、いかにも涼しくよい気分であり、霊山の尊さが身にしみることだ。)
 
雲の峯幾つ崩れて月の山
 (月山には、その名のように、淡い三日月がかかっており、高い雲の峰は夕日に映えているが、この雲の峰は、この夕刻になるまでに、幾つ崩れては湧き、湧いては崩れたことであろうか。)
 
語られぬ湯殿にぬらす袂哉
(たもとかな)
(湯殿山神社の神秘を人に語ることは許されないのだが、それだけに、いっそうこの霊場から受ける感銘がひとしおで、ひそかに感涙で袂をぬらすことである)    
 
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天宥社
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月山・湯殿山は深山幽谷であり、積雪期に登拝が不可能なので、羽黒山の出羽神社は三山の神様を合祀して、三神合祭殿となっています。あいにくの天気(また少し降り始めた)で写真がはっきりしません。また、萱葺替え工事中でした。
出羽神社 三神合祭殿
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参集殿・鐘楼
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八咫烏(やたがらす)  3本足の伝説上の大カラス
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御本殿(三神合祭殿)前の鏡池  コオホネが咲いていました
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蜂子皇子(はちこのみこ)の墓
父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺された後、馬子から逃れるため船で海へ出て現在の鶴岡辺りにたどり着き、八咫烏に導かれて羽黒山に登り、出羽三山を開いたとのこと。多くの人々の苦悩を取り除いたことから、能除大師と呼ばれるようになったそうです。
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御本殿に並んで蜂子社があります。
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斎館(参籠所)
参道(三の坂)を登りきった鳥居の手前にあり、参拝客の宿泊所として利用されています。10年ほど前に泊まったことがあります。味わい深い精進料理・往時を忍ぶ展示品・眼下の眺望など思い出します。
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斎館前の参道
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参道の敷石をよく見ると、所々に盃などが刻まれていました。
真中は天狗?その下は?
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南谷 (雨も止んで良かった)
第50世別当天宥法印が建てた別当寺の別院玄陽院跡。
本文『六月三日、羽黒山に登る。図司左吉(ずしさきち)と云ふものを尋ねて、別当代、会覚阿闍梨(ゑがくあじゃり)に謁(えつ)す。南谷(みなみだに)の別院に舎(やどり)して、憐愍(れんみん)の情、こまやかに、あるじせらる。
四日、本坊において俳諧興行。
  有難や雪をかをらす南谷  』

ここに芭蕉は深い慈愛の心で、心遣いもこまやかにもてなされ、翌日、俳諧の会が催されました。現在は、礎石の一部を残すのみですが、自然の中の名園の面影を感じました。
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ここで芭蕉が詠んだ句 (句意はNHK講座テキスト参照)
 有難や雪をかほらす南谷
 
(あゝ、尊くもありがたいことであるよ。ここ南谷では、下界をよそに、南風が霊山の残雪の 香をかおらせて、清浄な気がみなぎっている)
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東屋 ここで独り静かにいたら良い句ができそうな... 無理だね。Photo_17
南谷へは表参道の三の坂下から別れた道を400m余り入ります。雨の後で泥濘になっているところもありました。
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二の坂にある三日月塚(芭蕉塚) 
説明を聞きのがし、ここが、涼しさや・・・の発句の処ということしか分かりません。
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芭蕉翁と刻んだ碑文は読取れました。
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二の坂茶屋で一休み
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茶屋からの展望
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表参道は杉並木が続き、道沿いは都忘れの花盛りでした。
三の坂の石碑は見落としたので、一の坂の碑を加工
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五重塔
平将門の建立で、慶長13年の修理を経て今日に至っているとのこと
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五重塔に近く、爺杉があります。昔は婆杉もあったとか。
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3分も歩くと、祓川と神橋にでます。
祓川は月山に源流を成し、羽黒山へ登るとき、身を清めた川で、戦後間もなくの頃までは、参拝者は衣服を脱いで身を清めたそうです。祠の背後、須賀の滝は江戸時代、天宥別当が月山から8㎞の水路をひいて造った人口の滝だとか。Photo_31
神橋 
少し離れて撮りたかったけど、ツアーでは、皆と離れすぎるとけないので...
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神橋を渡ると、いくつかの社があり
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左に折れて随身門へ向かうと長い上り坂です。これが継子坂で、昔、幼い子をここに捨てたところ、子は母を探して這い歩き、石段にその小さい足跡が残った。との話があるようです。
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石の鳥居と随身門 門の前にあるのは天拝石
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参拝認定証
10年前にはありませんでした。
参道の石段は2446段あったのですね。
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出羽神社の門前は羽黒町手向(とうげ)といい、参拝者や修験者の為の宿坊が建ち並びその数は300を数えたそうです。現在も道沿いに30軒余りの宿坊があるそうです。
大進坊と宿坊街
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大進坊の玄関前、通りに面して建つ芭蕉の三山三句碑
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大進坊の向かい側(神林坊)、にも句碑と小さな芭蕉像があります。
芭蕉が天宥法印の遺徳を偲ぶ追悼文の末尾に詠まれた句と思いますが、天宥社の説明版には 無玉や・・・ ではなく 其玉や・・・となってましたね。
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左下は三山三句碑ですが、涼風や・・・となっています。向かいの大進坊は涼しさや・・・ですね。調べてみたら、涼しさや・・・となるのは「奥の細道」と「三日月日記」のみ。「俳諧書留」など他はすべて涼風や・・・となっていると分かりました。これも先生が説明なさったのに、私が聞いてなかっただけかもね。
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芭蕉が図司左吉と云ふものを尋ねてとありますが、左吉は本名、俳号を呂丸(ろがん)といいます。呂丸の辞世句碑がある烏崎神社に行きました。
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呂丸辞世句  消安し都の土に春の雪   Photo_44
呂丸屋敷跡へも行きました。
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この辺りの玄関の軒に太い綱を巻いて掛けてあるのを見かけます。これは魔除けの引綱(祭りの神事に使う)で、綱を掛けると、つつが虫(悪魔)が近寄らないという言伝えがあるそうです。Photo_48
本文『最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云ふ、おそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては、酒田の海に入る。左右山おほひ、茂みの中に、船を下(くだ)す。是に稲つみたるをや、いなぶねとは云ふならし。白糸の滝は、青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ、水みなぎって、船あやふし。
  さみだれをあつめて早し最上川  』

芭蕉は乗船した実感で、あつめて涼し・・・をあつめて早し・・・に改めました。
芭蕉は本合海から乗船し、古口で乗り換えて清川に向かいました。私たちは古口からの乗船です。船頭さんのお話と最上川舟唄・真室川音頭と楽しい1時間でした。
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白糸の滝  まさに青葉の隙々に落ち ですねPhoto_51

清川には庄内藩の関所があり、川岸の関所跡(現在は清川小学校で当時を偲ぶものは榎の古木と古井戸だけ)に句碑があります。ここでデジカメの電池切れです。見学もここまでで良かった。
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清川で下船した芭蕉は一路羽黒山に向かいました。私たちは宿泊するホテルリッチ&ガーデン酒田に向かいました。
ホテルの窓からは、山頂を雲に隠した鳥海山が見えました。
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