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2013年6月の投稿

2013年6月30日 (日)

奥の細道を訪ねて第11回 (1日目) 大石田~本合海

6月21日から23日までの2泊3日、いよいよ日本海側の旅です。山形駅からバスで大石田の乗舩寺に向かいました。
本文『もがみ川、乗らんと、大石田と云ふ処に、日和を待つ。爰(ここ)に、古き俳諧のたね、落ちこぼれて、わすれぬ花の、むかしをしたひ、芦角一声(ろかくいっせい)の、心をやはらげ、此の道に、さぐりあしして、「新古ふた道に、ふみまよふといへども、道しるべする人しなければ」と、わりなき一巻(ひとまき)を残しぬ。このたびの風流、爰にいたれり。』
芦角とは芦笛(あしぶえ)のこと

乗舩寺 本堂  阿弥陀如来坐像・千手観音立像
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釈迦堂 阿弥陀如来坐像・釈迦涅槃像
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特別拝観をさせていただきました。
釈迦涅槃像は京仏師作で、2メートル余り、全国でも珍しいとのこと。
後ろの二体は阿弥陀如来坐像
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境内に斉藤茂吉の墓、茂吉の歌碑、正岡子規の句碑などがあります。
歌碑 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうべとなりにけるかも
句碑 ずんずんと夏を流すや最上川
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句碑前の楓の種がきれいでした。プロペラみたいになっているのは、種が株元に落ちると自分の陰になるので、遠くに飛ばせる為だとか・・・
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立石寺から大石田に向う芭蕉を本飯田まで出迎えたのが、高桑川水(たかくわせんすい)です。川水は大石田村の大庄屋で、この地方の俳壇の一員でもあるとのこと。この川水の墓がありました。(↓)かな?
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芭蕉はここを訪れたのかしら?芭蕉に関連したものは川水の墓だけでした。曾良の日記によれば、向川寺を参詣したようですが、私たちは向川寺には行きませんでした。

最上川は紅花をはじめとした、特産品を上方に運び、上方からも様々な物資を運び、大石田はその集散地として、とても繁栄していたとのこと。
先生に見せていただいた 大石田河岸絵図
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船役所跡
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川に沿って大橋の方に少し歩くと、高野一栄宅跡があります。芭蕉は高桑川水に迎えられて、ここ一栄宅に着きました。一栄は船持荷問屋を営み、川水と同じ俳壇の一員です。大石田滞在中、芭蕉は曾良・一栄・川水を連衆として、「さみだれを」の歌仙を巻きました。現在は板垣一雄氏宅になっている庭に「おくのほそ道」紀行300年を記念して、平成元年に碑が建てられたそうです。
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芭蕉はここでは「さみだれをあつめて涼し最上川」と詠んでいます。まだ、あつめて早しではないですね。

この芭蕉真蹟歌仙「さみだれを」の発句を模刻した句碑が西光寺ありました。でも、残念なことに、覆堂のガラスの中で、写真に撮っても自分たちが写るだけでした。
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仁王像(金剛力士像)の阿形像は悟りを求める菩提心を、吽形像は結果としての悟りを意味しているとのことです。
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写真に撮れない真蹟句碑の代碑 中央が芭蕉の句碑
 「さみ堂礼をあつめてすずしもかミ川」
Basyoukuhi

一栄の句碑 もありました。
 岸にほたるを繋ぐ船杭 (歌仙の脇句)Photo_16
説明を聞きのがしたのかもしれませんが、寺を出る時、ふと小さな像に気が付きました。どう見ても芭蕉の像です。台座ばかり大きくて、なんと小さな芭蕉さん。皆さん写真に撮っている様子もなかったけど?代碑の碑文を添えました。
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曾良の日記によれば、芭蕉と曾良は馬で大石田を出て舟形に向かい、舟形からは歩いて新庄に入りました。
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当時、なだたる難所として知られていた猿羽根(さばね)峠は断片的ながら残されていました。
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山頂に地蔵尊が祀られており、ここに股覗きの台がありました。覗いて逆さに見た景色は、おぉ~ 大きく見えました。周辺は公園として整備されています。
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公園にある芭蕉句碑 「風の香も南に近し最上川」
脇にある石碑は、芭蕉の句の説明と、斉藤茂吉もここを訪れ、歌集「白き山」の後記の中に芭蕉のこの句のことを書いている。と刻まれていました。
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猿羽根山公園にも一理塚がありましたが、これは鳥越の一理塚です。旧羽洲街道に設けられ、道の両側にありましたが、現在は北側だけです。昔の面影を残すのはここだけ。とのことです。
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新庄に入った芭蕉もこの清水を飲んだのではないか?と推察される柳の清水。新庄藩の初代藩主がこの辺に土手を築き、柳の並木を植え、清水のそばにも柳の大木があったので、柳の清水と呼ばれ、近年まで近所の人々が飲んでいましたが、いつの頃からか消えてしまった。現在のものは地元の人が発掘し、その跡を確認し、復元したものだそうです。湧き出る清水は昔のままだそうです。
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この句は本文に記載はされていませんが、新庄の風流亭で開かれた連句の会で詠ん芭蕉の句です。
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新庄で芭蕉が2泊したのは、渋谷甚兵衛宅です。甚兵衛は、豪商で俳句をたしなみ、芭蕉の尾花沢での句会に参加していることから、「是非新庄に来て、自分の家に泊まってください」と誘ったのではないかとのこと。この甚兵衛宅が風流亭と呼ばれています。風流亭の筋向いに、甚兵衛の兄・盛信宅(盛信亭)があり、甚兵衛に案内されて訪れ、新庄の俳人たちと歌仙を巻きました。「風の香も南に近し最上川」の句はここで詠まれたものらしいとのこと。これも本文にはなく、曾良の日記が出てから分かったことだそうです。
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本文に『もがみ川、乗らんと、大石田と云ふ処に、日和を待つ。』とありますが、曾良の日記により芭蕉は大石田ではなく、本合海から船に乗って最上川を下りました。当時は交通の要衝で、多くの荷物が運搬され、旅人もここから一気に最上川を下ったり、徒歩の人も向こう岸と渡し船で行き来したりと大変賑わう河岸だったそうです。
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芭蕉はここから船に乗りその船上からの実感として、「さみだれをあつめて涼し・・・」の句の涼し早しに改めました。芭蕉乗船の地のここに、その句碑と芭蕉・曾良の像が建てられています。
さみだれをあつめて早し最上川
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芭蕉乗船の地の標柱と由緒の碑
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1日目はここまで。バスで鶴岡に行き、休暇村 羽黒に泊まりました。

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2013年6月 2日 (日)

奥の細道を訪ねて第10回 鳴子温泉~山寺(3日目)

Photo_35月19日 前日の疲れも取れたようで、朝食前に鳴子温泉駅まで散歩しました。途中、こけしの店が製造作業を始めていたので、しばらく見せて頂きました。見る見るうちに頭の部分が綺麗に削られていきました。また、店内のこけしを見て欲しくなり、15㎝程のこけしを自分への土産に買いました。首を回すとキュッ キュッと良い音がします。私が今大事にしているこけしが一つあります。就職した翌年の秋、母と二人で1泊旅行したとき、十国峠で買った「「想い」と名の付いていたこけしです。頭ばかり大きくて、掃除の時に倒れ易く、一度捨てようかと思った事もありましたが、母がいなくなった今は、大事な想い出となっています。

本文 『大山(たいざん)をのぼって、日既に暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて、舎(やどり)を求む。三日風雨(ふうう)あれて、よしなき山中(さんちゅう)に、逗留す。
  蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと  』

芭蕉が尿前の関を通過し、大きな山の中で日が暮れたので一夜の宿を借りたのが国境を整備する庄屋の家(封人の家)でした。曾良の日記よれば、実際に風雨が激しかったのは一日二夜だけで、逗留も二泊でした。馬小屋が母屋の中にあるけれど、芭蕉は実際には土間を挟んだ居間ではなく、やや離れた客間(床の間)あたりで寝ているのでしょうから、「枕もと」というのはやや誇張された表現でしょう(NHK講座テキスト参考) 囲炉裏を囲んで、お話しを聞かせて頂きました。現在の建物も300年以上経っているとのこと。300年前に芭蕉が座った同じ場所に座っている訳ですね。茅葺屋根の維持管理が大変なことも知りました。

封人の家から歩いて200mほどの所にある分水嶺に、先生が案内してくださいました。流れて来る一つの川が、ここで右と左の二手に分かれて流れて行きます。分かれ目に石が飛び飛びに並べられていて、右は太平洋へ、左は日本海へと流れて行くとのこと。このような場所は初めて見ました。ちょっと感動です。

『あるじの云ふ、「是より出羽の国に、大山を隔てゝ、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて、越ゆべき」よしを申す。「さらば」と云ひて、人を頼み侍れば、究竟(くつきやう)の若もの、反脇指(そりわきざし)をよこたへ、樫の杖を携へて、我々が先に立ちて行く。けふこそ、必ずあやふきめにも、あふべき日なれと、辛(から)きおもひをなして、後(うしろ)について行く。あるじの云ふにたがはず、高山森々(しんしん)として、一鳥(いつてう)声きかず、木(こ)の下闇、茂りあひて、夜行くがごとし。雲端(うんたん)に土ふる心地して、篠のなか、踏み分け踏み分け、水をわたり、岩につまづいて、肌(はだへ)につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。彼(か)の、案内せしをのこの云ふやう、「この道、必ず不用(ぶよう)の事有り。つゝがなう送りまゐらせて、仕合(しあは)せしたり」と、よろこびてわかれぬ。跡に聞きてさへ、胸とゞろくのみ也。』
本文は山刀伐(なたぎり)峠の険しい山路越えの様子です。私たちは山頂近くまでタクシーを使い、そこから歩いて楽々と峠を越えました。山頂には奥の細道 山刀伐峠越の文学碑、子宝地蔵と子持ち杉、東屋などがあります。コシアブラの木も見付けました。峠を越えると尾花沢です。

尾花沢に芭蕉は10泊しました。
『尾花沢(おばねざは)にて、清風と云ふものを尋ぬ。かれは、富めるものなれども、心ざし、いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をもしりたれば、日比(ひごろ)とゞめて、長途(ちやうど)のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
 涼しさを我が宿にしてねまる也
  這ひ出でよかひやが下のひきの声
 まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
 蚕飼(こがひ)する人は古代のすがたかな 曾良』

清風は芭蕉と交流があり、紅花を扱う豪商です。大富豪ですが、欲得に溺れることのない珍しい人物だと芭蕉は賞賛しています。10泊うち清風宅に3泊、近くの養泉寺に7泊しました。清風宅跡、養泉寺など尾花沢を散策しました。養泉寺には涼し塚があり中に「涼しさを我が宿にしてねまる也」の句碑が建っています。芭蕉の井戸もありました。説明板によると、寺は明治の大火で類焼し往時の面影はなくなったが、この井戸だけが当時を偲ぶ唯一のもので、この井戸の水を飲むと、和歌や俳句が上達するという伝えあるとのこと。この寺の前の通りから月山が見えました。

本文 『山形領に、立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑(せいかん)の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに仍(よ)りて、尾花沢より、とつて返し、其の間(あひ)七里計(ばかり)」なり。日、いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂に登る。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年ふり、土石老いて、苔なめらかに、岩上(がんしやう)の院々扉を閉じて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を俳し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として、こゝろすみ行くのみ覚ゆ。
  閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声  』

山寺は今年50年に一度の根本中堂の御開帳で(4月27日~5月31日)で大変な人出でした。
メモリの余裕がなくなったので携帯で撮りました
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私たちは御本尊を拝観するわけではないので、長蛇の列の脇を、皆とはぐれないように蝉塚まで登りました。ここからは駐車場のバスの集合時間まで自由行動です。私は五大堂とか奥の院とか色々な堂宇を廻ってお参りしました。
開山堂です。
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根本中堂も御本尊の拝観は無理ですが、御手綱を持ってのお参りが出来ました。力こんにゃくも食べました。携帯だと写真が撮り難いです。

芭蕉記念館が最後の見学でしたが、先生が予定外に案内して下さる所があるとのことで、記念館を早めに出ました。天道市になるのかしら?芭蕉の句碑が 山寺への旧道(右の写真)の分岐点にありました。「まゆはきを俤にして紅粉の花」の句でした。
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帰りは山形駅から新幹線でした。出発前は雨になるかもと思っていましたが。降られることもなく帰ってきました。6月と7月のツアーは友人の都合が悪く、ひとり参加になります。ちょっと心細いかな...

 
 

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2013年6月 1日 (土)

奥の細道を訪ねて第10回 毛越寺~尿前の関(2日目)

2日目の5月18日はちょっと体調が崩れ不運な日でした。デジカメも不注意で落としてしまい、落下後の写真がありません。(帰宅後に修理に出したら、カメラに何の異常もなく無事。SDカードも異常なく使用出来ます。でも、落下後に撮ったデータが無い。撮った時は保存も出来ていたのにね?SDカードをカメラから取り出す時に、しっかり入ってなくて、少し浮いていたようだったので、その為かな?と思います。)
天気には恵まれました。部屋の窓から見た朝日。昇る早さに驚きました。
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朝食前に散歩に出ましたが、半袖ではちょっと寒かった。そのせいかしら?朝からお腹の具合がいま一つすっきりしません。

2日目の最初は世界遺産 毛越寺(もうつうじ)の見学でした。
慈覚大師が、この地で一面の霧に覆われ、前に進めなかった時、ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちており、大師がその毛をたどると、白鹿がうずくまっており、近づくと、白鹿の姿は消えて、白髪の老人が現れ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げられた。大師はこの老人を薬師如来の化身と感じ、一宇の堂 嘉祥寺を建てたのが毛越寺のおこりとのことです。
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境内に建つ芭蕉句碑。左にあるのは芭蕉の真筆だそうです。英訳の句碑もあるそうですが、見落としました。「夏草や兵どもが夢の跡」 高館で詠んだ句です。
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創建時の伽藍は焼失しましたが、復元図が掲げられていたので、寺で配布されたパンフレットに載っていた境内の上空写真を参考に伽藍名を入れてみました。間違えもあるかしら?伽藍の説明もパンフレットを参照しました。拡大出来ます
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南大門跡 毛越寺の正門で、礎石12個が完存しているとのこと。
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嘉祥寺跡 御本尊は薬師如来であった。
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金堂円隆寺跡 中心的伽藍で東西に廊が出て南に折れ、先端には鐘楼、経楼があった。
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鐘楼跡 雨落溝が土壇をめぐり、その水は池に注ぐように造られていた。
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現在の鐘楼  鐘つき体験ができます。札所で500円支払い、護摩木に願い事と名前を書いて奉納し、合掌して鐘をつきます。お願いすれば良かったかな...
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法華堂跡 常行堂とともに天台宗の修行の道場 
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常行堂 創建時の建物は焼失し、再建された建物で本尊は宝冠阿弥陀如来。
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鐘楼と常行堂
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遣り水 山水を池に取り入れる為の水路。谷川を流れ下り更に蛇行しながらゆったりと平野を流れる川の姿を表現し、水底に玉石を敷詰め、流れに水切り、水越し、横石など配し、「作庭記」の技法を目の当たりに出来る遺構。発掘調査中に往時の姿のままに発見されたそうです。
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出島と池中立石 荒磯の風情を表現しており、毛越寺庭園を象徴する景観であるが、震災での崩れがあるとのこと。
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築山 海岸に迫る岩山を表現しているとのこと。
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開山堂 毛越寺開山の慈覚大師をおまつりするお堂
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開山堂正面にある明治神宮から分譲献進していただいたアヤメ圓。
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一関を発った芭蕉は、上街道を赤稚児・深谷から岩ヶ崎の街を通り、上野坂、三橋、鳥屋を経て松並木の並ぶ雷神社の坂を通り、志戸ヶ森の頂上で松の枝に衣を掛けて休み(芭蕉衣かけの松)、一迫、岩出山へ向かいました。 上街道の一部は生活道と重複し、古道は所どころ分断されています。
上街道入口 この先に古道がありますが、「ここはマムシが出るので、先生絶対歩いてはダメですよ」と注意をされているのとのことでここの古道は歩きませんでした。
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上街道  「芭蕉衣かけの松」は既に枯れており、切株だけです。「芭蕉腰掛けの松」だね。なんて言ってました。傍にある松が3代目の松だそうです。千本松長根への古道は石畳になっており、風情がありました。天王寺一里塚はこれを残すために、県道の真中にあるこの部分だけ上下線が左右に分かれていました。
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この後の昼食は食がすすまず、おかずのみでご飯は食べられませんでした。

本文に『南部道(なんぶみち)はるかに見やりて、岩手(いはで)の里に泊る。』
と記されている岩出山の芭蕉像
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芭蕉が宿泊したのは、石崎屋という旅籠で、現在の岩出山交番付近にあったようです。現在はそことは少し離れた場所で和菓子屋になっていました。「芭蕉の宿」と云うお菓子があり、美味しいとのことで、お土産にと買っていました。私はゆべしを2個。
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この街にあった竹工芸館(竹細工の実演と販売)をちょっと覗いてみました。
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有備館  江戸時代の伊達家の家臣子弟の学問所。建物は3・11の震災で破壊され改修中でした。
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有備館 庭園
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本文に『小黒崎・みづの小嶋を過ぎて、なるごの湯より、尿前(しとまえ)の関にかゝりて、出羽の国に越えむとす。此の道、旅人稀なる処なれば、関守にあやしめられて、漸(やうやう)にして関を超す。』とあります。
小黒崎の芭蕉像はちょっと可愛いかった。
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この後、美豆の小嶋へと歩いている時、道路にカメラを落としました。しまったΣ( ゜Д゜)ハッ!と思い、試しに撮ってみたら確認も出来て大丈夫!良かった!!と続けて撮影していたのですが、宿で見たら、落下前のデータが消えていました。旅行前の数枚は残っていましたが...ガッカリです。旅行から帰ってSDカードをパソコンに入れたら???カメラでは消えていたはずのデータはしっかり残っていて、でも、逆にカメラで確認出来ていた落下後のデータは見られませんでした???

美豆の小嶋
風土記に記されている岩石の一小島で、島の頂きに弁財天を祀り周囲に松が植えてある。岩をよじ登って弁財天に掌を合わせてきました。川の中にあった小さい島だったようですが、現在は川岸になっています。歌枕の地で「小黒崎 美豆の小島の 人ならば 都のつとに いざといはましを」の歌碑があり、芭蕉も訪れました。芭蕉と曾良の姿を入れた説明板が建っています。

尿前の関
出羽仙台街道の宿駅のひとつで尿前に置かれた仙台藩の番所跡。尿前といのは義経伝説で、亀割山で生まれた義経の子供・亀若丸がこの地で初めて尿をしたのが名の由来だそうです。芭蕉は出羽の尾花沢に出るためにこの関を越えましたが、通行手形を持たなかったので関守に怪しまれ、なかなか許可されず、やっとのことで通過したようです。関跡に芭蕉像と『蚤虱 馬の尿する枕もと』の句碑が建っています。

この日は鳴子温泉・幸雲閣に泊りました。鳴子の名前の由来にも義経伝説があり、義経が平泉へと落ちのびる途中に亀若丸が生まれ、この地で産湯をつかった時初めて泣き声をあげたので「啼子(なきこ)」とよばれたとのこと。他の説もあるようですが...
宿の部屋は2階で、窓の外はすぐ目の前に宿の建物があり、景色の見えない部屋でした。夕食は食欲がなく、せっかくの御馳走もほんの少し頂いて、あとは目で楽しみました。極たまにこのようなことがあるのです。少し休めば食べられるようになるので、お願いして、釜飯をおにぎりにしていただいて、部屋に持ち帰りました。同室の友人に申し訳なく思いながら、横になりました。9時半頃には起きておにぎりを食べ、喉が渇くので缶入り飲料3缶買って、温泉に入って、また休みました。

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