奥の細道を訪ねて第11回 (1日目) 大石田~本合海
6月21日から23日までの2泊3日、いよいよ日本海側の旅です。山形駅からバスで大石田の乗舩寺に向かいました。
本文『もがみ川、乗らんと、大石田と云ふ処に、日和を待つ。爰(ここ)に、古き俳諧のたね、落ちこぼれて、わすれぬ花の、むかしをしたひ、芦角一声(ろかくいっせい)の、心をやはらげ、此の道に、さぐりあしして、「新古ふた道に、ふみまよふといへども、道しるべする人しなければ」と、わりなき一巻(ひとまき)を残しぬ。このたびの風流、爰にいたれり。』
芦角とは芦笛(あしぶえ)のこと
乗舩寺 本堂 阿弥陀如来坐像・千手観音立像
釈迦堂 阿弥陀如来坐像・釈迦涅槃像
特別拝観をさせていただきました。
釈迦涅槃像は京仏師作で、2メートル余り、全国でも珍しいとのこと。
後ろの二体は阿弥陀如来坐像
境内に斉藤茂吉の墓、茂吉の歌碑、正岡子規の句碑などがあります。
歌碑 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうべとなりにけるかも
句碑 ずんずんと夏を流すや最上川
句碑前の楓の種がきれいでした。プロペラみたいになっているのは、種が株元に落ちると自分の陰になるので、遠くに飛ばせる為だとか・・・
立石寺から大石田に向う芭蕉を本飯田まで出迎えたのが、高桑川水(たかくわせんすい)です。川水は大石田村の大庄屋で、この地方の俳壇の一員でもあるとのこと。この川水の墓がありました。(↓)かな?
芭蕉はここを訪れたのかしら?芭蕉に関連したものは川水の墓だけでした。曾良の日記によれば、向川寺を参詣したようですが、私たちは向川寺には行きませんでした。
最上川は紅花をはじめとした、特産品を上方に運び、上方からも様々な物資を運び、大石田はその集散地として、とても繁栄していたとのこと。
先生に見せていただいた 大石田河岸絵図
船役所跡
川に沿って大橋の方に少し歩くと、高野一栄宅跡があります。芭蕉は高桑川水に迎えられて、ここ一栄宅に着きました。一栄は船持荷問屋を営み、川水と同じ俳壇の一員です。大石田滞在中、芭蕉は曾良・一栄・川水を連衆として、「さみだれを」の歌仙を巻きました。現在は板垣一雄氏宅になっている庭に「おくのほそ道」紀行300年を記念して、平成元年に碑が建てられたそうです。
芭蕉はここでは「さみだれをあつめて涼し最上川」と詠んでいます。まだ、あつめて早しではないですね。
この芭蕉真蹟歌仙「さみだれを」の発句を模刻した句碑が西光寺ありました。でも、残念なことに、覆堂のガラスの中で、写真に撮っても自分たちが写るだけでした。
仁王像(金剛力士像)の阿形像は悟りを求める菩提心を、吽形像は結果としての悟りを意味しているとのことです。
写真に撮れない真蹟句碑の代碑 中央が芭蕉の句碑
「さみ堂礼をあつめてすずしもかミ川」
一栄の句碑 もありました。
岸にほたるを繋ぐ船杭 (歌仙の脇句)
説明を聞きのがしたのかもしれませんが、寺を出る時、ふと小さな像に気が付きました。どう見ても芭蕉の像です。台座ばかり大きくて、なんと小さな芭蕉さん。皆さん写真に撮っている様子もなかったけど?代碑の碑文を添えました。
曾良の日記によれば、芭蕉と曾良は馬で大石田を出て舟形に向かい、舟形からは歩いて新庄に入りました。
当時、なだたる難所として知られていた猿羽根(さばね)峠は断片的ながら残されていました。
山頂に地蔵尊が祀られており、ここに股覗きの台がありました。覗いて逆さに見た景色は、おぉ~ 大きく見えました。周辺は公園として整備されています。
公園にある芭蕉句碑 「風の香も南に近し最上川」
脇にある石碑は、芭蕉の句の説明と、斉藤茂吉もここを訪れ、歌集「白き山」の後記の中に芭蕉のこの句のことを書いている。と刻まれていました。
猿羽根山公園にも一理塚がありましたが、これは鳥越の一理塚です。旧羽洲街道に設けられ、道の両側にありましたが、現在は北側だけです。昔の面影を残すのはここだけ。とのことです。
新庄に入った芭蕉もこの清水を飲んだのではないか?と推察される柳の清水。新庄藩の初代藩主がこの辺に土手を築き、柳の並木を植え、清水のそばにも柳の大木があったので、柳の清水と呼ばれ、近年まで近所の人々が飲んでいましたが、いつの頃からか消えてしまった。現在のものは地元の人が発掘し、その跡を確認し、復元したものだそうです。湧き出る清水は昔のままだそうです。
この句は本文に記載はされていませんが、新庄の風流亭で開かれた連句の会で詠ん芭蕉の句です。
新庄で芭蕉が2泊したのは、渋谷甚兵衛宅です。甚兵衛は、豪商で俳句をたしなみ、芭蕉の尾花沢での句会に参加していることから、「是非新庄に来て、自分の家に泊まってください」と誘ったのではないかとのこと。この甚兵衛宅が風流亭と呼ばれています。風流亭の筋向いに、甚兵衛の兄・盛信宅(盛信亭)があり、甚兵衛に案内されて訪れ、新庄の俳人たちと歌仙を巻きました。「風の香も南に近し最上川」の句はここで詠まれたものらしいとのこと。これも本文にはなく、曾良の日記が出てから分かったことだそうです。
本文に『もがみ川、乗らんと、大石田と云ふ処に、日和を待つ。』とありますが、曾良の日記により芭蕉は大石田ではなく、本合海から船に乗って最上川を下りました。当時は交通の要衝で、多くの荷物が運搬され、旅人もここから一気に最上川を下ったり、徒歩の人も向こう岸と渡し船で行き来したりと大変賑わう河岸だったそうです。
芭蕉はここから船に乗りその船上からの実感として、「さみだれをあつめて涼し・・・」の句の涼しを早しに改めました。芭蕉乗船の地のここに、その句碑と芭蕉・曾良の像が建てられています。
さみだれをあつめて早し最上川
芭蕉乗船の地の標柱と由緒の碑
1日目はここまで。バスで鶴岡に行き、休暇村 羽黒に泊まりました。
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