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2013年1月の投稿

2013年1月26日 (土)

千両

久しぶりにワード絵を描きました。読売ワード絵の千両です。格子戸が大変でした。
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アレンジしたいけどアイデアがありません。
ひこばえの切株を自己流に描き、以前描いた読売ワード絵のパーツを組み合わせて1枚Photo_2これと連結させてタイトルバナーを作りました。雪だるまはクリップアートです。
タイトルバナーに春の花が表示されている方は、URLアドレスの並びの互換表示のクリックをお願いいたします。
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2013年1月18日 (金)

1月句会

1月17日は欠席者もなく全員揃っての初句会でした。
前夜12時過ぎまで頑張ったのに、入選は2句のみ。
Photo ふゆゆやけ のせてたゆたふ なみしずか
薄い夕焼けの松島です。
下五の「波静か」を考え直した方が良いと思うのですが...

Photo_2 クリスマス がれきのツリー てんをさす
12月16日にマリンゲート塩釜の前で見ました。まだ製作途中なのかもしれませんね。「天を指す」か「たのもしき」か迷いました。地元の子どもたち、ボーイスカウトの子どもたち、地元の大人も参加しての作品だそうです。
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この句会で特選になった5句です。
書き初めを太字で仕上げ女の子   Y さん
とりとめもなきおしゃべりや女正月   T さん
初夢で会ふ旧友の若き顔        S さん
遠出する心細さや雪模様         O さん
腰さすりつつ初護摩の札を受く      H さん

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2013年1月 6日 (日)

奥の細道を尋ねて第9回 塩釜・松島~石巻・登米 (3日目)

12月18日 、3日目です。朝食前に「袖のわたり」を見に行きました。前日に行った時は、石巻の名の由来と云われる巻き石が良く見られなかったので、再度、散歩を兼ねて先生と希望者で行きました。が、満潮時間が近く、前日より沈んでいました。残念。でも、山に霞がかかって、墨絵のようで、きれいでした。
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津波被害の残る河岸で鴨が遊んでいました。橋の向うに見える円い白い建物は、石ノ森漫画館(宮城県出身の漫画家、石ノ森章太郎の記念館)です。3.11の震災で長期休館をしていましたが、2012年11月に再開館したそうです。
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石巻を発った芭蕉は北上川沿いに一関街道を平泉へ向かいました。途中の津山町に「芭蕉ゆかりの地」の碑が建っています。碑には「おくのほそ道」の本文が刻まれていました。
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一関街道(国道45号)
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本文に『戸伊摩(といま)と云う所に一宿して』と記されているのは、現在の登米(とよま)です。まづ、登米神社に参拝しました。
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ちょっと急な石段です。苔と草と散り敷く落葉に鄙びた趣を感じます。
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本門(隋神門)
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本門の石段の下にある芭蕉句碑
芭蕉はこの地で作句はしていませんが、登米に一宿した日が竹酔日であったため、芭蕉が一宿してから81年後の明和7年に、この竹酔日に最も相応しい句を選定し、建立したとのこと。竹酔日とは陰暦5月13日の称で、中国の俗説ではこの日に竹を植えるとよく茂る、と云われている日だそうです。
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碑文は読み取れませんが、(降津とも竹植る日は美能登笠)と云う句で、美濃大垣に住む芭蕉の高弟である木因(ぼくいん)方で詠んだ句だそうです。
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本殿
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帰りは急な石段を避けて坂道を下りました。
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その後、登米町を散策しました。登米市登米町は同じ登米と書きますが、とめ市とよま町と読みます。
教育資料館前の通りの脇に「芭蕉一宿の地」の碑が建っています。
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「おくのほそ道」本文に「尾ぶちの牧」・「まのの萱はら」と記されているのに、ツアーではそのことに触れなかった場所の記載がここにありました。
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教育資料館

Photo_14 当時の洋風学校建築を代表する建物とのこと。
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バルコニー
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半鐘
授業の始・終業の合図として鳴らされていたが、戦時金属非常回収の実施のより、火の見櫓の半鐘が強制供出されたため、その代替として使われたとのこと。
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教室
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この後は昼食(海老喜)まで自由散策となりましたが、参加者全員が先生と一緒に散策しました。
水沢県庁記念館
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春蘭亭
旧鈴木家武家住宅(町指定文化財)ですが、当時の面影をしのんで頂くために、無料休憩所として整備されました。懐かしい囲炉裏。囲炉裏の家で育ちました。
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休憩のみ無料。ここで、抹茶なども楽しめます。私は春蘭茶のみ頂きました。
Photo_20 春蘭茶、春蘭の塩漬けです。お菓子が足りなかったのが残念。お正月に良いかと思い、1袋(10花)買い求めました。
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武家の門
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武家屋敷通り 鉤形小路
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武者かくし
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警察資料館 明治22年に建てられ、昭和43年まで警察署として使われていた。
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酒・味噌・醤油の製造販売、海老喜の資料館です。
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海老喜の蔵の中で昼食をいただきました。
売店の醤油まころん(お菓子)は素朴な懐かしい味がしました。

海老喜の近く、北上川の堤に「芭蕉一宿の跡」の碑があります。
風が強く寒いこと。旅の終わりはいつも風が強い!(国見峠・多賀城跡)
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最後に予定外ですが、すぐ近くにあるからと、先生が案内して下さいました。登米は伊達家の一門、伊達式部の城下町です。
寺池館跡 (平山城の跡) 遠く中世には葛西氏、近世になって登米白石伊達氏の居館だった。と碑に刻まれています。
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ここから見ただけで中には入りませんでしたが、中に入ると二の丸跡に博物館(登米懐古館)があるようです。幕府の一国一城令で仙台藩は青葉城と例外的に認められた白石城の二城です。この寺池城は伊達一門が政務を執る居館で「要害」として城とは区別されていたそうです。

バスに戻って帰りはなんと!福島駅までバスです。福島から新幹線でした。
2日目の17日にお誕生日を迎えられた方がいて、ホテルの会食会場で添乗員さんからプレゼント(入浴剤)がありました。私の誕生日は12月19日、旅の翌日だったのですが、帰りのバスの中で、「明日誕生日の方!」って言われて、えっ、、、私もいただきました。ホッカイロです。心が温まりますね。1月~3月のツアーはありません。10回目は4月からです。ちょっと一休みですね。

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2013年1月 4日 (金)

奥の細道を尋ねて第9回 塩釜・松島~石巻・登米 (2日目)

二日目の朝(12月17日)、泊った宿(新富亭)の窓から。AM6:56
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現地のボランティア ガイドさんに五大堂と瑞巌寺を案内していただきました。
五大堂は瑞巌寺が管理する御堂で、海岸広場の東端、五大堂島にある国の重要文化財です。大聖不動尊を正面に五大明王像が安置されています。Photo_2
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五大堂へは、朱塗りのすかし橋を渡ります。橋桁が隙間になっています。
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堂は周囲に十二支の彫りものがあり、太陽の方向に合わせた時刻をあらわしているとか。
2013年の干支は巳、 巳の刻は午前10時ごろ、また正午までの2時間です。
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建てられた当時の色が幽かに残っています。朱のようですが分かりますか?
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正面から見た景色。美しさに うっとり、、、
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五大堂から瑞巌寺へ向かいました。
松島港の浮き桟橋
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海岸に沿った商店街の中に見つけました。3.11の津波の高さがわかります。
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瑞巌寺 本文
『十一日、瑞岩寺に詣(まう)づ。当時、三十二世の昔、真壁の平四朗、出家して入唐(につたふ)、帰朝(きてう)の後(のち)、開山す。其の後に、雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化(とくくわ)によりて、七堂、甍改まりて、金壁荘厳(こんぺきしやうごん)、光を輝かし、仏土成就(ぶつどじやうじゆ)の大伽藍とはなれりける。彼(か)の見仏聖(げんぶつひじり)の寺は、いづくにやとしたはる。』
瑞巌寺の正式名称は「松島青龍山円福寺」。国宝です。828年慈覚大師の創建で、現在の建物は伊達政宗が6年の歳月を費やし1610年3月竣工したもので、伊達家累代の菩提寺とのこと。寺といっても、城のようなところがあり、青葉城が万一の時の備えだったとのこと。政宗公が実際に訪れたのは上棟式を含め3度だけだったようです。
瑞巌寺 総門 
額に刻まれた「桑海禅林」(そうかいぜんりん)は、扶桑(日本)の海の近くに建つ禅寺と云う意味だそうです。
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総門を入ると杉並木の参道が続きます。
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総門から何メートルかしら?「津波到達地点」の立て札がありました。潮に浸かって枯れた杉を300本ぐらい伐ったそうです。残念です。
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本堂の方から見た参道。 鬱蒼としていたはずなのに、、、
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総門を入って、右の方にある脇参道には洞窟群があります。修行僧が生活した場所でもあるとのこと。壁に五輪塔が彫られているのもあります。
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拝観受付の向かい側に格子のはまった洞窟があります。「法身窟(ほっしんくつ)」といい、北条時頼が、後に円福寺の開山となる法身性西(俗に真壁平四朗)と出会った場所とのこと。窟内には時頼の法名碑・雲居国師行状碑・三陸海嘯供養碑等が納められているそうです。(海嘯=潮津波とも呼ばれ、昭和初期までは地震津波も海嘯と呼ばれた)。 岩の上にあるのは鐘楼です。
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3・11の震災前から本堂・中門・御成門は大修理をしており非公開です。その期間中、国宝庫裡と陽徳院(政宗公正室 愛姫)御霊屋(撮影禁止)を公開しています。本堂などの写真はパネルで並んでいました。
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庫裡
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本来は本堂に安置している御本尊、藩祖政宗公・2代忠宗公の大位牌、三代開山木像が大書院で特別公開されていました。

境内の芭蕉碑
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裏に「おくのほそ道」 松島の本文が刻まれています。
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境内の夫婦欅
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ここを通って陽徳院(正宗公正室 愛姫)の御霊屋へいきました。

政宗公の嫡孫 伊達光宗君の菩提寺である円通院は、瑞巌寺に隣接しています。光宗君は江戸城内において19才という若さで卒し、その死因に関して毒殺説と病死説が伝えられているとのこと。
円通院 山門
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光宗君の御霊屋(三慧殿) 二代藩主忠宗公によって建立されました。
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三慧殿の厨子 中に白馬に跨る衣冠束帯の光宗君の像と殉死された七人の像が祀られています。
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厨子の図案は支倉六右衛門常長が西欧より持ち帰った様々な文化を模様として描き、当時鎖国制度を施行していた徳川幕府に対しては、伊達家の霊廟と申し立て、その扉は開けることはなかったと言われ、その為、3世紀半もの間公開されずに現代に至った伊達家の秘蔵だそうです。
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ハート・スペード・ダイヤ・クローバなど目を凝らして捜しました。
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円通院はバラ寺とも呼ばれ、これは支倉常長が持ち帰ったバラが厨子に描かれていることに由来しており、境内にはバラ園があります。季節でなかったのが残念!
バラ園
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円通院本堂 大悲亭
もとは光宗が江戸で納涼の亭としていたものを、海路でこの地に移築したそうです。
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円通院の石庭は「天の庭」「地の庭」で構成され、「天の庭」は松島湾に実在する七福神の島を表し、「地の庭」は人生を表しているとのこと。石で、生まれたままの割り肌からたたかれ、磨かれ成長する様を三種類の仕上げで表しているそうです。「天」と「地」には天水橋がかかり、二つの庭のかけ橋です。
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天の庭
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遠州の庭 心字の池
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円通院のさらに隣にあるのが天隣院で、ここは、政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺です。陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟になっています。五郎八姫は徳川家康の六男、松平忠輝の正室でしたが、忠輝は父である家康の政略方法に反発し、大阪夏の陣遅参などにより、高田65万石を取り上げられたため、五郎八姫は離縁されて仙台へ戻り仏門へ入ったとのことです。
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五郎八姫の御霊屋
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ここに西行法師の像がありました。
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本文に
『江上(かうしやう)に帰りて、宿を求むれば、窓を開き、二階を作りて、風雲の中(うち)に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地はせらるれ。
  松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす    曾良
予は、口をとぢて、眠らむとして、いねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂(そだう)、松嶋の詩有り。原安適(はらあんてき)、松がうらしまの和歌を送らる。袋を解きて、こよひの友とす。且つ、杉風(さんぷう)・濁子(ぢよくし)発句有り。』

と記されている場所です。
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この辺りから見た松島  時間は午前11時45分、月は見られませんね。
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昼食後、西行戻しの松へ行きました。
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案内板にも記されていますが、同じような話で、日光の稲毛神社に「西行戻しの石」がありました。ツアーで配布された資料では、ここの「西行戻しの松」の説明は西行が京にいた時、ある女性に「あこぎである」とたしなめられたが、その言葉の意味を解せずにいた。東国に下りこの地を通り過ぎたある日、一人の老人がつぶやいた歌「伊勢の海あこぎが浦にひく網もたび重なればあらわれやせん」で西行は、言葉が指す「しつこい」という意味を初めて知り、わが身の未熟さを恥じ早々に立ち去った、という。とありました。
西行戻しの松
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ここも眺めの良いところです。
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このあと石巻へ向かいました。本文
『十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、あねはの松・緒(を)だえの橋など、聞き伝へて、人跡稀(じんせきまれ)に、雉兎(ちと)、蒭蕘(すうぜう)の往きかふ道、そこともわかず、終に、道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ。「こがね花咲く」と、よみて奉りたる、金花山、海上に見渡し、数百の廻船、入江につどひ、人家、地をあらそひて、竈のけぶり立ちつゞけたり。おもひがけず、かゝる所にも、来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)、まどしき小家に一夜を明かして、明くれば、又しらぬ道まよひ行く。』
石巻 日和山公園
標高わずか50m余の小さな丘ですが、石巻市街を一望できます。ここに芭蕉と曾良の像が立っています。が、そこからの景色は悲惨です。3・11の津波で大きな被害が出た所で、涙が溢れます。『数百の廻船、入江につどひ、人家、地をあらそひて、竈のけぶり立ちつゞけたり』のように1日も早い石巻の復興をと願いました。
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震災前の写真が何枚か展望の柵にありました。出来るだけ同じ場所になるように撮ってみました。早く元の生活が出来ますように、、、
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ここに鹿島御児神社があります。
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参拝後、鳥居から北上川河口(上記 震災前と後の写真の1枚目)・太平洋を臨み、黙祷を捧げました。
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芭蕉句碑もありました。傾いてますね。よく読み取れませんが、「雲折々人を休めるつきみかな」の句です。
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他にも宮沢賢治・石川啄木・新田次郎・斎藤茂吉などの歌碑がありました。
この境内は、もと石巻城の本丸だったようです。頼朝の奥州合戦の折に軍功を挙げた葛西清重が35万石の封領を治めるため築城した。政宗が秀吉に降伏すると、秀吉の命令によって廃城となった。政宗は、青葉城よりもこの地に居城を設けたいとの意志があったと言われ、江戸幕府への願書には、日和山を第二志望地にあげている。城の遺構は、本丸の周囲に巡らされた空濠のみで、わずかに痕跡をとどめているにすぎず、現在は公園として整備されている。(ツアー配布資料)
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本文
『袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝかやはらなど、よそめにみて、はるかなる堤を行く。心ぼそき長沼にそうて、戸伊摩(といま)と云う所に一宿して、平泉に至る。其の間(あい)、二十余里程と覚ゆ。』
歌枕の「袖の渡り」はここ石巻です。北上川河岸にあり、震災津波の被害で地盤沈下し、哀れな姿で、立入り禁止。歌碑には近づけませんでした。
袖の渡り
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河岸
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ここに住吉公園があり、
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園内中央に大島神社(住吉神社)があります。
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この後、石巻観光物産センターでお土産を買いました。長須鯨の缶詰などもありました。

この日の宿は、石巻グランドホテルで、ここが芭蕉が一泊した四兵へ宅のあった所だそうです。ホテルの前に碑が建っていました。(写真は翌日の朝撮影)
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