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2012年12月の投稿

2012年12月25日 (火)

奥の細道を尋ねて第9回 塩釜・松島~石巻・登米 (1日目)

全16回のツアーの9回目は12月16日(日)からの2泊3日でした。
新幹線 仙台駅で下車、バスで塩釜へ向かいました。「おくのほそ道」本文
『塩がまの浦に入逢(いりあひ)のかねを聞く。五月雨(さみだれ)の空、聊(いささ)かはれて、夕月夜(ゆふづくよ)かすかに、籬(まがき)が嶋も程ちかし。あまの小舟(をぶね)こぎつれて肴(さかな)わかつこゑごゑに、「綱手かなしも」とよみけむ、こゝろもしられて、いとゞあはれ也。其の夜、目盲法師(めくらほうし)の、琵琶をならして、奥淨るりと云ふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる、調子打上げて、枕ちかう、かしましけれど、さすがに、辺国の遺風、わすれざるものから、殊勝に覚えらる。』
私たちは、塩釜港でバイキングの昼食をとりました。
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昼食後、最初は塩釜神社に行きました。
塩釜明神の本文
『早朝、塩竈の明神に詣(まう)づ。国守(こくしゅ)再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きゅうじん)に重なり、朝日、あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果て、薼土(じんど)のさかひまで神霊あらたにましますこそ、吾(わ)が国の風俗なれと、いと貴(たふと)けれ。』
塩竈神社 大鳥居 陸奥国一宮となっています
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鳥居の傍にある 高低几号標柱。海の干満の平均値から求められた標高の基準となる零メートル地点を示すものだそうです。この標柱は独立した石柱として現存する唯一のもので、表参道付近まで入江となっていた当時の塩竈の姿を伝えているとのことです。(説明板より)
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参道は表坂・裏坂・七曲坂と三か所あります。表坂は大鳥居から楼門まで202段の急勾配の石段を登ります。参加者27人、皆、この石段を登りました。
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石段には紅葉が散って、、、友人の趣味は押し花です。
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楼門(隋神門)
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唐門
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左・右宮の拝殿は工事中でした。拝殿の奥に本殿があります。左宮に、たけみかづちの神、右宮に、ふつぬしの神をお祀りしているとのこと。
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別宮拝殿 奥に本殿があります。こちらは、しほつちおぢの神です。 
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本文に
『神前に、古き宝燈(ほうとう)有り。かねの戸びらのおもてに、「文治三年、和泉の三郎(さぶろう)寄進」と有り。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は、勇義忠孝の士也。佳命(かめい)、今に至りて、したはずと云ふ事なし。誠に「人能(よ)く道を勤め、義を守るべし。名も又是(これ)にしたがふ」と云へり。
と記されている「文治の燈籠」。神社で頂いたパンフレットには「文治神燈」となっていました。左宮の脇にあります。

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境内にある「塩竈桜」 ( 国指定天然記念物)
説明板によると、73代堀河天皇の御製に見られるので平安時代には既にこの境内に生育していたとのこと。 桜の季節でなかったのが残念。
 「あけくれに さぞな愛でみむ塩竈の 桜の本に 海人のかくれや」 掘河天皇 御製
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塩竈神社に並ぶ志波彦神社。塩竈神社と志波彦神社の二社を「しおがまさま」と呼んでいるようです。
ここからの景色も良いです。
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こちらの門も工事中です。
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拝殿
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鳥居
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鳥居の前に博物館があります。
館内には神社に伝わる宝物類、太刀(国重文)、大神輿などのほか、林子平の日時計がありました。日時計は以前は塩竈神社拝殿の傍にあったようです。
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博物館の前にあった平釜。塩水から塩をとった釜です。
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鋳銭釜。江戸時代にコインを作っていた窯だそうです。説明板によると石巻に鋳銭場があったようです。かなりのピンボケ写真で恥ずかしい、、、
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塩竈神社の別当寺として法蓮寺というのがあり、明治時代に廃寺となっていますが、この辺りに芭蕉が泊まったようです。鳥居は「志波彦神社・塩竈神社」と一つになっており、この鳥居の奥に「芭蕉止宿の地」の碑がありました。
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塩竈神社の境内外に末社として御釜神社があります。Photo_13
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ここには、神釜と呼ばれる四口(く)の鉄製の釜が祀られていています。
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神釜はこの扉の向こうに祀られています。神釜(四口の御釜)を拝見させて頂きました。上記説明(世に変事のある時、その前触れとして御釜の水の色が変わる)の通り、3.11震災の朝は一つの釜の水の色が透明に変わったそうです。
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Photo_15神事に使われる御釜
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Photo_17 藤鞭社
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本文
『日既に午(ご)にちかし。船をかりて、松嶋に渡る。其の間(あい)二里余(よ)、小(を)じまの磯につく。』
私たちも、塩竈港から遊覧船で松島に渡りました。
マリンゲート塩竈の入口に瓦礫と木端で作ったクリスマスツリーがありました。
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松島の本文
『抑(そもそも)、事ふりにたれど、松嶋は、扶桑(ふそう)第一の好風(かうふう)にして、およそ、洞庭(とうてい)・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江(え)の中(うち)三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)をたゝふ。嶋々の数を尽くして、欹(そばだ)つものは、天を指し、ふすものは、波に匍匐(はらば)ふ。あるは二重(ふたへ)にかさなり、三重(みへ)に畳みて、左にわかれ、右につらなる。負(お)へるあり、抱けるあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松のみどりこまやかに、枝葉(しえふ)、汐風に吹きはためて、屈曲、おのづから、ためたるがごとし。其の気色窅然(けしきえうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。千早振(ちはやぶ)る神の昔、大山ずみの、なせるわざにや。造化の天工、いずれの人か、筆をふるひ、詞(ことば)を尽くさむ。』
遊覧船内の窓から撮った写真で不鮮明です。また、聞き違いで、間違えもあるかと思います。仁王島からあとは窓に飛沫が多くなり、撮れませんでした。ことしの牡蠣は夏に30°を超す暑さが続いたので70%ほどに減っているそうです。
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雄嶋の本文
『雄嶋(おじま)が磯は地つゞきて、海に成り出でたる嶋也。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、座禅石など有り。将(はた)、松の木陰に、世をいとふ人も、稀々(まれまれ)見え侍りて、落ぼ・松笠など、打ち煙(けぶ)りたる草の庵、閑(しづ)かに住みなし、いかなる人とはしられずながら、先づなつかしく立ち寄るほどに、月、海に移りて、昼のながめ、又あらたむ。』
雄島も震災の被害を受け、復興にはまだ2~3年はかかりそうとのこと。住民の生活が優先です。雄島に渡る橋(渡月橋)が流されてしまったので、島に行くことはできませんでした。
案内板です
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雄島への道は橋が無いので立入り禁止です。
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ここから見た雄島
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渡月橋があった所。向こうに船が見えます
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景色の良いところなのですが、、写真が下手ですね
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翌日の天気が心配なので、翌日に予定していた双観山展望台に行きました。松島湾のほぼ全景が見渡せる、眺めの良い高台です。パノラマ写真は出来ませんでした。
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兜島 震災で兜(岩)の片方が欠けてしまい、ヘルメット島になってしまったそうです。
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この夕焼け、明日も大丈夫、天気はもちそうですね。

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2012年12月20日 (木)

12月(忘年)句会

12月20日、掬水亭で句会と忘年会がありました。今回は先生に5句取って頂き、内1句が特選でした。
特選を頂いた句
11月に行った多賀城跡の句です。あの日は天気が良かったのですが、風が冷たくて、とても寒かったのです。
Photoたがじょうし かぜふきわたる さむさかな
 原句 多賀城跡 風吹き晴るる 寒さかな
 添削 多賀城跡 風吹き渡る 寒さかな

以下入選句
多賀城跡にあった多賀城碑(壺の碑)です。現地のボランティアの方が案内をして下さったのですが、寒くて肩に力が入ってしまいます。
Photo_2 ひのゆらい かたまってきく きたのなか

11月に泊った仙台のホテルで、銀杏にだんだんと日が当っていくのを見ながら朝食を摂りました。写真は近辺を散歩した時のものです。
Photo_3 こくこくと いちょうもみじに あくるまち

先日の石巻の「袖の渡」です。震災・津波の被害で、北上川に沈んで、句碑のそばには行けませんでした。石巻の名の由来になった「巻き石」がよく見られなかったので、翌朝もう一度行った時の句です。霞がかかって墨絵のようでした。巻き石は残念、前日より沈んでいました。午前7時30分が満潮とのこと、行った時は6時40分でした。Photo_4 つなみかの そでのわたりや ふゆがすみ

バスの中から見た景色の句なので、写真を撮る間もありません。写真は実方の墓に行く途中の刈田で、遠嶺の雪はありませんが、、、
Photo_5 おおかりた はるかにしろき みねひとつ

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2012年12月 1日 (土)

奥の細道を訪ねて第8回(白石~多賀城跡) 3日目

11月18日(日) 朝4時半から露天風呂に(まだ誰もいません)。6時半からは友人と朝食を頂いて、その窓から街路樹の銀杏がとても綺麗に見えたので、部屋の荷物を整理した後、独り、ホテル近辺の散歩に出ました。出発は9時なので、時間はたっぷりあります。
歩道橋の上から
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歩道橋から銀杏落葉を掃いている方が見えました。カトリック教会の神父さんでしょうか。下りて話し掛けてみました。まだ人通りの少ないうちに毎日掃いていらっしゃるとのこと。掃き溜めたものは、ゴミの日まで敷地内に入れて置くそうです。通りに面した所は、皆さんがそのようにしているようです。銀杏は実が付く木と付かない木とあり、歩道一面に実が落ちるところは、実を避けられずプチッ ポチッと踏んでしまいます。
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面白いのは、同じ種類の銀杏でも場所(日当たり?)により黄葉の遅速が大きいことです。十字路に立って、右は黄葉しているのに、左はまだ青々としていました。
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本文とは前後しますが(芭蕉は「壺の碑」のあとに「末の松山」を訪れているので)、3日目は歌枕の地 、末の松山・沖の石 からでした。この辺りは3・11震災で津波が押し寄せたところです。あれから1年8ヶ月、津波の跡が塀に残って、その高さを知りました。塀の上の方にある白い線が津波の高さです。
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本文『それより、野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末(すゑ)の松山は、寺を造りて、末松山(まっしょうざん)と云ふ。松のあひあひ皆墓原(はかはら)にて、はねをかはし、枝をつらぬる、契(ちぎ)りの末も、終(つい)には、かくのごときと、かなしさも増(まさ)りて、、、』
末の松山は恋の古歌で知られる歌枕の地ですが、芭蕉が訪れた時、すでに松山は木々の間が墓場になっていました。歌枕の地が、無常を象徴する墓原と化していることに芭蕉は悲しさを増しました。現在は2本の松が立っているだけです。 
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あなた以外の人を愛するなどということは、末の松山を波が越えることと同じようにあり得ないことだ という「古今集」」の恋の歌
 「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ」の歌碑
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百人一首にもあります。
約束しましたね。互いに涙に濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越えることが無いように、二人の仲も心変りはしないと。 の恋歌
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」

沖の石は池の中に岩や石が折重なって盛上っており、やはり百人一首にあります。
「我が袖はしほひにみえぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」
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野田の玉川 ここも歌枕の地です
おもわく橋の欄干に掛けられた説明板。読み難いですね。
西行の歌は「ふままうき もみぢのにしき ちりしきて 人もかよはぬ おもはくのはし」
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能因の歌は「ゆふされば しほ風こして みちのくの のだの玉河 千鳥なくなり」
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川に下りてみました
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川の中を覗くと
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多賀城廃寺跡
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現在は史跡公園として整備されています。
塔跡
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塔跡の上に登ると
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金堂跡
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講堂・鐘楼など他の伽藍跡も同じようになっていました。

多賀城跡
江戸時代初めに多賀城碑(壺の碑)の発見により遺跡が多賀城跡であると判明したそうで、発掘調査の結果、「城」というよりも「行政府」としての色彩が強かったことが分かったそうです。
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南門跡
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城は築地に囲まれていて、築地には幅3m高さ5mの土塀が築かれていた。
築地塀跡
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奥の細道本文
『  壺碑 市川村多賀城にあり。
つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺計歟(ばかりか)。苔を穿(うが)ちて、文字(もんじ)幽か也。四維国界之数里(しゆゐこくかいのすり)をしるす。「此城神亀(このじやうじんき)元年、按察使鎮守府(あぜちちんじゆふ)将軍大野朝臣東人之(おほのあそんあづまひとの)、所置(おくところ)也、天平宝字六年、参議東海東山節度使(とうせんせつどし)同(おなじく)将軍恵美朝臣朝獦(ゑみのあそんあさかり)、修造而(しゆざうなり)。十二月一日」とあり。聖武皇帝の御時にあたれり。むかしより、よみ置ける歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代(よ)変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて、うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に、古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかり也。』

壺の碑というのは、本来は、昔、征夷大将軍の坂上田村麻呂、実は文屋銀麿が奥州7戸壺村の北に立てたと伝えられるもので「新古今和歌集」の頃までは歌枕としてそれをさしてきたが、伊達綱村の代に宮城県の多賀城から発掘された一古碑が壺の碑だと喧伝されるに及び芭蕉もすっかりそれを信じてしまったのだろう。(ツアーで配布された資料より) 
芭蕉が『うたがひなき、千歳の記念(せんざいのかたみ)』と涙もあふれ落ちるほど感動した「壺の碑」は南門から城内に入ったすぐ右手にあり、覆屋(さやどう)に納められています。群馬県の多胡碑・栃木県の那須国造碑とともに日本三古碑の一つだそうです。
 壺の碑(覆屋)
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壺の碑
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芭蕉はここでは句を詠んでいませんが、。仙台を立つ時の「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」の句碑が建っていました。句の下の方に奥の細道「壷の碑」の一部分が小さな文字で刻まれているようです。
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ここに隣接した丘に政庁跡があります。政庁は、城の中央部にある国府の中心施設で、重要な儀式や餐応などが行われた場所です。
政庁跡へ向かいます
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階段状に石が並んでいますが、この6m地下が同じようになっているそうです。
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登りきった所に政庁の模型がありました。
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政庁跡は発掘途中のようです。
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ここからバスで福島駅まで戻りますが、新幹線の乗車時間まで間があるので、多賀城市文化センターに寄り、展示室を見学しました。多賀城周辺の遺跡から発見された遺物が展示されていました。展示室の入口に壺の碑のレプリカがありました。
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全16回の旅の半分、8回目が終わりました。最初はそれほどにも思っていなかった旅ですが、回を重ねるごとに興味が深まってきたように思います。それにしても参加者の方々が皆歴史に詳しいのには驚きました。

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